2013年5月31日金曜日

小袖と現在の着物の違い(身幅)

高台院(ねね)の小袖

 安土桃山時代以前は公家文化の継承といえます。
公家の表着(うわぎ)は男女共に大袖です。反物の幅はその大袖に合わせて織られていましたので、幅は現在よりも広かったのです。
反物の幅は元禄期になって現在と同じ幅になります。現在の幅は36cmですが、元禄期以前の幅は42cmありました。現在は前幅は6寸(23cm)で衽幅は14cmですが、元禄以前は前幅38cm衽幅25cmくらいありました。
能装束の着装をみますと、上前の立て褄がお尻のほうまで回り、褄先が大きき跳ね上がった着装をしています。あれは身幅が広くて対丈ですからそういう着装になってしまうのです。元禄期くらいから身幅が現在と同じになるのですが、何故そうなったのかに興味が湧きます。
 学者は明確が資料がない限りはそういうことには触れませんが、私は学者ではありませんので、想像を巡らせてみます。
 出雲のお国歌舞伎に代表されるように、当初は歌舞伎も女性が主役を演じていてのですが、風紀上の理由で歌舞伎は男歌舞伎だけになります。
女形役は女性らしい、しなやかさを演出するために、体に添わせて体の線を強調する着装をします。そういう着装をするには身幅が狭くなければできませ。歌舞伎がの影響によって反物の幅が狭くなったものだと私は思っています。
 身幅が広いときには前がはだけることがありませんので、坐るときは胡坐か立膝でしたが、身幅が狭くなってからは正座するように変わります。
所作は大陸文化の継承のままでしたが、これも女形が立膝や胡坐では女らしさがでないので、歌舞伎が大きく影響しているのではないでしょうか。

2013年5月30日木曜日

小袖と現在の着物の違い(留袖)

留袖とは本来の意味は振りのない袖ということです。
普段は貴賤を問わずに小袖を着用するようになった、当初の小袖は全て留袖でした。留袖が当たり前のお袖の形でしたので区別をする必要がなかったのですが、振袖が着用されるようになりますと留袖、振袖の区別が必要になります。振袖はミスの専用着となり、結婚をすれば留袖仕立てにしたことから留袖と振袖の区別が必要になり、留袖はミセスを象徴する詞となります。
 元禄期以降は帯幅が広くなり、袖丈も次第に長くなり、享保年間になりますとミセスの留袖にも現在のきものと同じく脇が空けられ振りがつくようになります。ミセスも振りのある小袖を着用することは一般化すると文献にあります。
文献にはありますがが大奥の女房たちは、明治までは留袖で通したと言われています。また江戸後期の歌麿、春信、写楽などの浮世絵を見ましても年配者が振りのある小袖を着ている姿は稀です。そういうことから、ミセスになれば留袖仕立てにしたという風習は根強く続けられていた事が明確です。
 江戸の後期になりますと、紋付の江戸褄模様のきものが礼装として町家の間でも着用されることが一般化します。紋付の着物がミセスの代表するきものとなります。
紋付の裾模様の着物を現在では留袖と言いますが、昔からそのように呼称していたという事実は文献では見られません。
 私たち若い頃には、コーヒーを注文するときは必ず「温かいコーヒー」を下さいと言っていました。温かい飲み物と言えば他にも沢山あります。でも喫茶店の代表的な飲み物はコーヒーですから、「ホットコーヒー」と言わなくても「ホット」だけで通用するようになりました。
それと同じで、紋付裾模様がミセスの代表の着物ですから、何時の時からか紋付の裾模様のきものを、留袖と呼称するようになったものだとおもわれます。

2013年5月29日水曜日

小袖と現在の着物の違い(振袖・留袖)


出雲のお国に代表される遊芸の女性たちは、華やかに装うために、子供の着物には脇が空いて小さな振りがありましたので、その子供の着物にヒントを得て振袖の小袖を着るようになりました。
それが一般にも広がっていって娘の晴れ着は振袖になっていきます。
 振袖は万治頃(1658~1661年)には一尺五寸とありますので、現在の感覚からすれば短いものでした。
その後時代の推移とともに袖丈が長くなり、貞享の頃(1684~1688年)2尺、享保の頃(1716~1736年)には二尺四~五寸(90~95cm)、文化文政期以降は三尺(113cm)くらいの袖丈になります。
 振袖には中振袖と本振袖があります。江戸時代後期には富裕な町人や上級の武家や公家の娘は普段でも振袖を着用していました。その振袖は中振袖です。昔富裕層は花嫁衣裳として振袖を着用していました。そこで礼装用の振袖と通常に着る振袖は区別しており、礼装用は本振袖を着用し、その他は中振を着用していました。
 中振袖は名のごとく袖丈は本振袖よりも袖丈は短いものでした。本振袖と中振袖は本来は袖丈の長さで明確に区別していたのですが、現在は本振袖も中振袖も袖丈は区別がなくなりました。
 富裕な階層の娘たちは普段も振袖を着用していましたが、昔は結婚をすれば留袖仕立てにするのが習わしでした。そういう習わしから振袖はミスの礼装とされています。
 留袖というのは本来は振りのない着物という意味なのです。
画像を見れば振袖以外のモデルは留袖の小袖を着ています。

2013年5月28日火曜日

小袖と現在の着物の違い(袖)


袖の形は当初はAの筒袖です。小袖が表に現れる部分が多くなり、小袖中心の時代になりますと、Bの薙刀袖、または船底袖という形になります。
元禄期になりますと袂が大きくなりCの元禄袖になります。
それから袂がさらに大きくなり男子は宝暦(1751年)、女子は安永時代
(1772年)ころからは男女ともにDの角袖になります。
角袖は仕立てる時に四文銭で丸みを付けたので銭丸袖とも言われています。
現在は男女ともに角袖に仕立てますが、四つ身や娘たちの着物は可愛い感じを出すために元禄袖にすることもあります。
作業用の上っ張りや半纏は現在でも筒袖や船底にする場合もあります。



2013年5月27日月曜日

小袖と現在の着物の違い(着装)


 襦袢を着るようになるのは元禄期以降です。
それ以前は肌着として白の小袖を一番下に着装していました。
小袖が中心の時代になった当時の正式な小袖の着装方は、一番下に白の小袖を着て、中の小袖は無地の色物を、そして表の小袖は模様を配した小袖を着ていました。
これは十二単の重ね袿の着装に擬してそうなったものです。
図の女性の胸元を見ていただいたら分る通りに、男女ともに3~4枚重ねて着ています。それが通常でした。
 現在は留袖の礼装の時にだけ白の下着を重ねますが、昔は遊び女や富裕層の男女は、礼盛装や外出着を問わず常に重ね着をしていました。
 現在襟だけを重ねる重ね襟というのがあります。重ね襟は、重ね着をしているように見せるためのもので、襟だけを付けて重ね着をしているのと同じに見せているのです。
 重ね着は昔は礼盛装、外出、普段着を問わず重ねていましたので、どんな着物にでも重ね襟を付けても間違いということはありません。
しかし、昔は季節に応じて重ねたり重ねなかったりと調節をして着装していました。
 着付に行きますと胸元を華やかにするために、季節を問わず重ね襟を付けてくれと頼む人がいます。昔から春袷、秋袷の季節になると、重ね着をしないというのが慣習でしたので、重ね襟もその季節になればしない方がよいということを知っていてください。

2013年5月26日日曜日

端やん逝く(田端義夫)

かえり船は昭和21年の曲です。
私はまだ幼年時代でしたが、あの哀愁のある歌が心に残って子供の頃から好きでした。
 田端さんは昭和37年に「島育ち」でカンバックするまでは、全く売れないで不遇の時代がありました。そんな時に水原ひろしさんもそうでしたが、亡くなった勝新太郎が気遣って、収入になるように映画にだしてやっていました。
 私が担当していた映画に端やんが出た時がありました。
セット撮影の時間待ちの時に、衣裳部屋にギターがありましたので、、私がギターで遊んでいると、ギターの音が聞こえたのでしょう衣裳部屋に端やんが入ってきました。「衣裳さんちょっとギター貸して」と言われましたので渡しました。その時に子供の頃から田端さんの大フアンでした。特にかえり船が大好きです。よかったら歌ってくれませんかと厚かましく言いました。
 端やんは普段の会話では、喉を気遣って聞き取れないくらいに細々と話をしますが。その時は「よっしゃ歌おか」と言って「かえり船」を歌ってくれました。
私一人の為にです。芸能界で10年ちょっと仕事をしていましたが、私にとって最高の思い出になった一場面でした。
端やんのご冥福をお祈りしています。
その時を思い出して「かえり船」を歌ってみました。下手でも供養になるでしょう。http://www.youtube.com/watch?v=ECYzd5JkIHQ

2013年5月24日金曜日

橋下さん頑張れ

慰安婦問題等でバッシング受けて、維新の会は終わりなどと言われています。みんなの党は次の参議院選挙では、選挙協力の破棄を言い出しました。
馬鹿ですね、そんなことをすれば民主党が喜ぶだけです。
 慰安婦問題では櫻井よしこさんが、韓国まで行ってくまなく調べたがそんな事実は実証されなかったと言っています。
戦前は韓国人は虐げられていたことは事実です。そんなことで貧しい人が多かったのは確かです。貧困による経済事情で自発的に娼婦となったのではないかと私などは思っています。
 強制された事実はないと櫻井さんは行っていますが、明確なことは私などには分りません。でもそなことはどうでもいいのです。
 戦争というものは酷いもので殺すか殺されるかです。そんな状況下で人は酷いことを平然と行ってしまいます。戦争とはそんなものですから、戦後に精査され応分の清算が行われるわけです。人道的になどと言いますと、そんなことに固執していたらロシアやドイツはどうなります。すでに戦後の清算は終わっているのです。何時まで卑屈にご機嫌伺いをしなければいけないのですか。
終わってしまえば何時までも引きずるのではなく、お互いの国益と世界平和の為に、言いたいことを主張する。それで理解しあって交わってこそ真の友好関係が構築できるのです。攻められる我が国の政治家はもっと毅然として外交を行ってほしいです。互いに言いたいことが言える関係が出来てこそ、お互いの発展があるのです。
 誹謗中傷はいけませんが、橋下さんのように言いたいことを言えばよいのです。政治家皆が懸命に叫び合えば、分りやすくて我々国民は選択しやすくなります。口先ばかりで腹の中は違うという政治家はもういりません。
 橋下さんは言いたいことを言って俺と維新の会を見てくれ。それでよければ維新の会に政治を委ねて欲しいという姿勢なのです。大人ぶって賢くずるく責任を回避しようと立ち回る政治家が多い中で、橋下さんのような政治家は貴重です。

2013年5月23日木曜日

小袖と現在の着物の違い(身丈)


小袖は当初は内着であったものから、表着としいて用いられるようになったものですから、小袖が衣服の中心となった桃山時代から元禄期ぐらいまでは対丈でした。
髪型は垂れ髪ですから、着装をするときは衣紋(えもん=首の後ろの部分を空かして着装するすること)を抜かないで男性と同じように着装し、帯も写真のロープ状の帯は名護屋帯(九州の名護屋で作られていたものですから)を腰の部分で締めて着装していました。
徳川政権が安定期に入る元禄時代になりますと、屋内で裾を引いて着装するよになります。寛延年間(1748年~)には裾引きの丈がさらに長くなったと文献にあります。
裾を引くようになったということは、反物の長さが長くなったということです。この現象は一般庶民の小袖にも波及します。反物の長さが長くなると裾が擦り切れた時にも仕立て直しができますので、一般の人たちも小袖を長く仕立てるようになります。
長くなった分は必然的に長い分をはし折って着装するか、または下図の立ち姿の女性は帯の下で抱え帯をしています。その抱え帯で長い分をはし折って外出をうるようになります。

2013年5月22日水曜日

昔の小袖と現在の着物の違い(裄)


 昔の小袖姿の図を見ていただければわかるように、肘から下が丸見えという状態で、裄は極端に短いのが昔の小袖の特徴です。
裄=肩幅(身頃)+袖幅で形成されています。現在は肩幅と袖幅は約1:1になっていますが、昔は袖幅が極端に狭かったのです。
それは図で示されているように現在の袖は1幅使うのですが、昔は1幅で袖と襟を取っていたからです。
今の反物の幅は9寸5分(36cm)ですが昔の反物の幅は42cmと広かったためです。これは表着は大袖でだったことに起因しています。
大袖の場合は同じように裁って袖幅に1幅足して1.5倍の幅にして仕立てていました。小袖は内着でしたので狭いままに使われていたものと思われます。
 映画や演劇では肘から丸見えというのは無様ですから、現在と同じような裄にしていますが、本当は元禄期以前は極端に裄が短いというのが真実なのです。


2013年5月21日火曜日

小袖と現在の着物の違い身丈

小袖は上流社会では当初は肌着として用いられていました。
庶民はその肌着を表着として用いていました。上流社会では袴を穿くのが通常ですから、身丈は短いものでした。
衣服の簡略化が進みますと、袴を穿かないで小袖の上に衣を羽織る姿、これを「はつき」と言いますが、そういう服装が公服として認められるようになります。小袖が足首まで長くなるのは小袖の全体が表に現れるようになってからではないかと思います。
庶民は当初から小袖を表着として用いられていましたが、身丈は写真のように短いものでした。
小袖が中心の時代になったのが安土桃山時代からで、その当時は身丈は男性と同じで対丈でした。
女性の小袖の身丈が長くなるのは元禄期以降です。

2013年5月20日月曜日

昔の小袖と現在の着物

今のきもののことを昔は小袖と呼称していました。
その小袖は当初は上流社会では肌着として用いていました。
一般庶民の衣服はその小袖を表衣(うわぎ)として用いていました。
時代の推移とともに政権が移行し、服装の簡略化が進みます。
そして肌着であった小袖が表に現れる部分が多くなり、小袖にも彩色が施さっるようになります。そして安土桃山時代になりますと、上流社会の小袖と一般庶民の小袖が表着として用いられるようになるという点において、合流し小袖中心の時代となります。
 公家は従来通りの服制があり、武家は室町時代に武家の服制が整えられますので、礼服はそれぞれに服制はあるのですが普段は貴賤を問わず小袖姿で過ごすようになります。それが小袖中心の時代になるということです。
 その小袖は全体の形態としては現在のきものと変りはありませんが、部分的には随分異なっていますので、その点を記したいと思います。

2013年5月19日日曜日

小袖(こそで)


  清長の浮世絵

 現在の着物を昔は小袖と呼称していました。
小袖という詞は平安時代の中期にはあったということです。
平安時代の中期には衣冠束帯、唐衣裳という日本固有の服装が出現して来ます。男女共に表衣(うわぎ)は大袖の衣ですので、肌着として小さいお袖の服を重ねて着用していました。その肌着が大袖に対して小さいお袖でしたので小袖と呼称されるようになりました。
当初上流社会では肌着として着用されていましたが、時代の推移と共に衣服の簡略化が進み小袖が表に姿を現すようになってきます。表に現れるようになりますと、洋服のTシャツと同じで、当初は白であったものが、色や柄が付けられるようになったのと同じで、小袖にも色や柄がつけられるようになります。そして安土桃山時代になりますと、当初は内着であったものから、普段着は貴賤を問わず小袖を着用して過ごすようになります。小袖中心の時代にとなるわけです。



2013年5月18日土曜日

きもの(小袖)

きもの=着物は本来は衣服全般を意味する詞であったものが、洋服の出現によって洋服と和服を区別する必要が生じました。
そこで和服は一般的にはきもの(着物)と呼称し、洋服と区別するようになりました。
これは洋服が用いられるようになってからのことで、それ以前はどのように呼称していかと申しますと、きものは衣類全般の着る物という意味で用いられ、現在のきものは通常は小袖(こそで)と呼称していました。
その小袖という呼称は平安時代の中期にはすでに用いられていたと文献にあります。

2013年5月17日金曜日

萌黄・萌葱(もえぎ)



葱(ねぎ)は野菜のねぎのことですが、葱青(そうせい)、葱翠(そうすい)という語があり、あおあおとした様子、あおあおと緑色したさまを表す語です。
萌は芽吹いてくるさまですから、萌黄は新緑が芽吹いてあおあおとしている様子を表しています。色は黄色を帯びたあお色です。日本では昔は緑色のことをあおと言っていました。

花もよし 萌黄る木々も 目に染みて

5月は花も綺麗ですが、新緑の萌黄る瑞々しさも心洗われる思いがします。
春は旅立ちの季節、人も自然と同じ歩みをしています。

2013年5月16日木曜日

橋下さんの売春婦発言

売春防止法が施行されたのが昭和31年5月です。
それまでは売春宿は合法で運営されていたわけです。
 明治になって武家政権が崩壊して武家社会の女性は仕事がなく、食べていくために8人に一人は売春していたと文献にあります。働く場がなく、国も助成する制度もなかったので、仕方なく売春をしていたのです、強制的にさせられていたものではありません。
 売春と言いますと女性を冒涜するものだ、女性の人権蹂躙だと騒ぎたてますが、別に強制的にやらされていたものでは、貧しくて仕方なく、また中には現在でもそうですが、手っ取り早く一番お金になる手段ですから自ら進んで行っている人もいます。
 合法的に行っていたものですから、経営者は商売繁盛の為に大昔から戦場まで出張して売春宿を運営したという歴史があります。
 櫻井よしこさんが慰安婦問題に付いて徹底的に調べたが、強制的に連行されたという事実はないと言われています。
売春婦であった女性が、商売繁盛の為に経営者に連れられて、一緒に行ったということではないのでしょうか。
橋下さんは、女性の人権を蔑ろにして売春婦の話をしたのではなく、自己の歴史認識を披歴したということではないでしょうか。
 橋下さんは自分は政治屋になりたくないと言っています。だから正直に、生一本に意見をぶつけてくるのですね。そんな橋下さんは私は好感が持てて好きですが、これで維新の会は大打撃を受けることは間違いないですね。

2013年5月15日水曜日

憲法改正を聞いて(6)

憲法9条の改正は戦争につながると危惧して、反対を唱える人が沢山います。
 アメリカはアジア戦略を考えて、沖縄をアメリカの属国とするという意思のもとに沖縄上陸作戦を敢行したということを、沖縄旅行をしたときに読んだ記憶があります。
従って、日本が9条を改正し、軍を持って自立できたとしても、アメリカは簡単には沖縄から撤退しないと思います。
また日本も中国の脅威が存続する限りは、日米安保条約は維持していかなければいけないでしょう。
 日米安保条約の締結を維持していく限りは、アメリカの戦略に同調していかなければいけないのではないかという危惧は確かにあります。
しかし、有事の場合の実力行使は総理大臣の指示が必要であり、政治家は国民の意思によって選出されるのです。この度の政権交代のように国民が確りと監視をしていけば、これまでの政治家がやってきたような、あいまいな政治はできないとおもいます。そういう点から改正は即戦争につながるという危惧はないと思います。
 結論は、我々国民が政治や選挙に関心を持って、監視することを怠らなければ戦争につながるのではという危惧は払拭できるということです。
 民主主義とはそういことなのですから、他者に頼らないで自立するという誇りを持たなければいけないと私は思います。

2013年5月13日月曜日

憲法改正を聞いて(4)

憲法改正の本丸は96条ではなく9条であることは明白です。
それは誰もが周知のことです。
我が国の現状は、幼児のように手を引いてもらって歩いている状況で自立できていません。経済大国と言われながら、こんな情けない状態でいのでしょうか。憲法改正反対を唱える人達は助けられながら、国の運営を行っていくことが当たり前と思っているのでしょうか。支えられながらしか前に進んで行けない。そんなことでは国、国民の誇りを放棄しているのと同じではないでしょうか。
 歴史を振り返れば判然とします。欲の強い人間社会では、自分たちの利益を優先させて、諍い、争い、紛糾、戦争が起こるのは当たり前のことで、人間社会では避けられないことなのです。
 もし争いになったときは、自分の国は自分たちで守れる体制を構築していく。これは当たり前の理屈であると私は思います。
 憲法改正を反対する人は、親の脛をかじりながら大きくなったのに、そのことを忘れて自分一人で大きくなったように思って、勝手気ままに振る舞っている子供達をみているように思ってしまいます。

2013年5月12日日曜日

憲法改正を聞いて(3)


次回の参議院選挙では憲法改正を公約に掲げる党が出てきています。
これまでは憲法改正に付いて、特に9条に触れると選挙では敗北するのでタブーとされていたものが、議論の場に上り堂々と議論されることは好ましいことで、一歩前進したことを喜んでいます。
ただ憲法改正を唱える党の本丸は9条であることは明確です。
でもそれを公然と述べると、まだまだ戦争につながるという幻想から抜け切れていない人が多く、選挙では不利になるから、議論の場では意図する真相を誤魔化そうとするところが見られます。
これまでどれだけそういう言動を見せつけられて来たことか。口先だけでその場を繕うとする言動は国民を愚弄しているのと同じです。それほど国民はめくらではりません。
 現憲法は押し付けられた憲法であります。
現憲法を立案したアメリカ人は、まだその憲法のままであることに呆れているいうエピソードもあるくらいです。
時代にそぐわない憲法であることは明確なのですから、96条だけでなく9条にも踏み込んで議論をし、誤魔化しのない明確な公約を掲げて選挙に挑んで頂きたいと思います。
 冷戦が終息し世界情勢が混沌としてきている。中国が大きな脅威となっ来ている。韓国、北朝鮮の問題もある。そして頼りとしているアメリカの弱体化というように総合して考えると、憲法を改正して完全自立を提唱しない党は、真に我が国の尊厳と誇りを考えていない党であると私は思います。


2013年5月11日土曜日

憲法改正を聞いて(2)

尖閣、竹島の領土問題における中国、韓国とのギクシャクした関係を考えた時に、日米安保条約がなければ中国、韓国はどのような態度で我が国に挑んできているか。それを考えると恐ろしくなります。
戦後無事ここまで日本が成長できたのは間違いなくアメリカのお蔭です。
そのアメリカが日本の為に戦っていたとしても、我が国は武力攻撃ができない。そんなおかしなことはないでしょう。そんな国の体制を改めなければいけないと考えるのは、当然の理屈ではないでしょうか。
 経済大国と言われながら完全自立できていない今の我が国を考えた時に、あまりにも身勝手な国状に恥ずかしくなってしまいます。
民主主義を唱えるなら、応分の責任と義務を果たさなければいけないでしょう。有事の際はお金だけ出すのではなく、すべての面で応分の責任と義務を果たす。それが自立できた大人の歩みです。
援助され、援護されて生きて行けているのに、自分では好き勝手に生きていて、助けられていることの認識のない、大人になり切れていない人と、現状では同じになってしまいます。

2013年5月10日金曜日

憲法改正を聞いて(1)

一昨日BSで櫻井よしこさんと、もう一人名前は忘れましたが、憲法学者を招いてのトーク番組を見ました。
 櫻井さんは憲法改正推進派の方です。もう一人も憲法は改正すべきだと言われていました。
 様々な議論が交わされて、お終いに聴視者の意見を披露して、それに対する意見を櫻井さんに求めました。
その意見は「現行の憲法のお蔭で平和が保てているのではないでしょうか」
という意見でした。
その披露された意見を聞いて妻と二人して「未だにこんな意見の人がいるのだ」と驚いてしまいました。
 櫻井さんは、これまで無事来れた大きな要因は、東西冷戦というバランスシートの上で平和が保たれ来たことが一つ、そしてもう一つはなんといっても日米安保条約があるからなのです。「これまで無事来れたのは憲法のお蔭ではありませんよ。もっと勉強なさってくださいね」と言われました。
妻と二人して「そうだ、そうだ」と思わず叫んでいました。
憲法によって専守防衛が義務付けられているから、平和が保てていると考えている人が多いというのが現実ではないでしょうか。

2013年5月8日水曜日

牡丹(ぼたん)

貴女が舞う 百花の王に ふさわしや

牡丹はなんと豪華で華麗なのでしょう。まるで中世の貴婦人たちの舞踏会を連想してしまいます。
中国では牡丹は富貴の象徴とされており、以前は国花とされていました。
中国の国花が牡丹から梅に変わったのは1929年のことです。
中国では「百花の王」「洛陽花」と言われていました。
洛陽は日本では京都の特称ですが、本来は帝都を意味します。
王を象徴する花だったのでしょう。

2013年5月7日火曜日

教えること・教えられること(7)

私はYouTubeで紋付の羽織袴の着装の仕方をアップしています。大変多くのコメントを頂いていますが、大半は外国人からのものです。きもの文化に対しては外国人の関心が非常に高いことがわかります。
現在はグローバル化して外国人との接点も多くなっています。最近浴衣は仕立て上がりの安価(下駄も含めて1万円くらい)なものが沢山ありますので、外国人と接する機会の多い方はお土産に浴衣を差し上げれば喜ばれるのではないでしょうか。
そういうことの関連からも、着物を着る時にはどういうものが必要か、そしてきものの畳み方と、浴衣くらいは簡単ですから自分で着れるようになって頂きたいと思っています。
よく「きものを着る機会がない」という言葉を耳にしますが、その言い方は正しくはありません。
着物にも室内着から普段着、街着、外出着、盛装(正装)、礼装(礼服)があります。そのように着物にも普段着、お洒落着、そして儀礼用の服とありますので何時でもその気になれば着れるわけです。
着る機会がないのではなく、邪魔くさい、着付が出来ない、活動的でないという理由から皆さんは着用しないだけなのです。それを着る機会がないという言葉で一括りに片付けてしまうくらいに、きものは衣生活から疎遠になってきているということです。

2013年5月6日月曜日

教えること・教えられること(6)

若い人だけに限りませんが、自分ではきものを着ることは全くないと思って生活してきたが、息子が結婚をすることになり、相手の家族に合わせて自分達も着物を着なければいけなくなって急遽貸衣裳を借りて着た。
また友達から結婚式に招待を受けて、「できたら着物で出席してね」と言われたから、急遽貸衣裳を借りたという話はよくあります。そんな場合、着せてもらう時にどこまで自分で支度をしたらよいのか全く分からない。
そして脱いでから畳み方が分らないからくしゃくしゃに畳んで返したという話をよく聞きます。
きものは日本の民族衣装ですから、自分で着れなくても、着物を着る時はどんなものが必要か。もし着せていただく時はどこまで自分で支度をするか。脱いだ時はどうお手入れをして畳むのか。自分で着れなくても、その程度は日本人としての教養として親から子供に伝承していってほしいと思っています。

2013年5月5日日曜日

教えること・教えられること(5)

現在は洋服中心の時代で、日本女性といえども自分できものが着れなくても恥ずかしいという時代ではありません。そんな時代に儀礼時のことを考えてお稽古をするのは合理的ではありません。
 自分で着れなくても恥ずかしいという時代ではありませんので、着用しなけれいけない時は私の所で出張着付を行っていますので、そういうところを利用すればよいのです。自分で着るよりも綺麗で楽で着崩れない着付をしてもらえます。
その方が合理的です。
こんな時代にわざわざお稽古するかぎりは、上手に着れるようになって、大いに自己主張してお洒落を楽しむ。
そして心の潤いと豊かさにつながるお稽古をしてほしいのです。そうでなければお稽古をすることの意義が半減されてしまいます。
そういう意味からもお稽古をする限りは上手に着れるようにすることが必須なのです。
指導者はそういうことを確りと説明をする。教えられる方はそこまでの理解に達していなかったと思いますので、説明を受ければ素直に聞き入れる心が必要です。

2013年5月4日土曜日

教えること・教えられること(4)

例えば、着付のお稽古の場合は実用に即したものですから、技能・技術にばかり目を向けて、それが出来るようになればそれでよいという考えから、それ以外は関係ないとドライに割り切ってしまう人が多いのです。
それで出来るようになれば問題はないのですが、そうはいかないのです。
 お稽古をする人に「どこまで出来るようになりたいのですか」と聞きますと、皆さん「上手に出来るようになりたい」と答えられます。
そうなのです。それがお稽古をする人の最低の目標でなければいけないと思っています。
 お稽古に行ったが、やっぱり自分では着れないという人が大半です。それは上手に着れるようになりたいと希望しながらも、上手に出来るようになるまで、お稽古をされていないからそのようになってしまうのです。
上手というのはキリットと締まって見た目に綺麗というだけでなく、着ていて楽で、着崩れのない着付になっていなければいけません。また着るのに30分も40分も時間を要するようでは上手ではありません。
技能評価というものは遅い人は確実に下手です。上手な人は仕事も早くできます。技能というものは考えながら行っているときは遅くて出来上がりもよくありません。技能は体で覚えるもので、体で覚えていればスムーズに進行できますので出来上がりも良くて早く出来上がるのです。
上手にできれば諸々の技能面を解決してくれますので、お稽古をする限りは上手に出来るようならなければいけないのです。

2013年5月3日金曜日

梅田散策

伊勢丹が出来てJR大阪駅が改築されたときに見学に行ったのですが、、それ以降梅田に行ったことがありませんので、久しぶりに梅田散策に出かけてきました。阪急が新しくなったのも見ていませんので,先ずは阪急に行って来ました。
さすがに素晴らしい商品が展示してあります。
大した物は買えませんがスポーツシャツを一枚妻にプレゼントしました。
次にグランフロント大阪に行きましたが、物凄い人ですぐに引き返してビールを飲んで帰ってきました。
人は多いが買い物袋を持って歩いている人は少ないようで、維持していけるのでしょうか。一流企業が沢山入居していますので大丈夫だろうと思いますが、関西人としては大阪が栄えることを祈りたいと思います。

2013年5月2日木曜日

教えること・教えられること(3)

ハナカイドウ

 スポーツ選手は一般的にはオリンピックに出て活躍すれば、自分がやってきたスポーツで身が立てられるようになります。これはどんな職種でもおなじです。オリンピック選手と同じか、それ以上のプロフェッショナルにならなければ、それで身を立てるというのは困難です。
プロフェッショナルになるには「必要だからやっておこうかな」「好きだからやっておこうかな」というような、「かな」というような安易な気持ちではなれません。「絶対になるのだ」という強い精神が必要です。
ただ「やるのだ」という強い精神性だけでは続きません。頑張ったことによって自身が向上していく、その向上していく喜びを感じ取ってこそ辛苦に耐えて頑張り通せます。
起用不器用や、血筋なんて関係ありません。強い精神力を持って頑張れば成就する。全ての起源は精神にありますので、その精神性を高めるように指導する。教えられる方も、そういうことを自身の心で感じ取れる素直な気持ちを育てることが先ず大切です。

2013年5月1日水曜日

教えること・教えられること(2)

卓球でも何でも同じです。並よりも抜きん出た技能を身に付けるには、好きであったり、必要に迫られたりという動機があって、ある一時期は必至で頑張ってやり通した。その結果の上に優れた技能や技術や知識が身に付く。これ以外の理屈はありません。
私たち人間は欲深い動物です。誰もが自分の人生を充実させたいと念じて生きています。
充実とは精神面と物質面があります。最終的には精神的に充実しなければ、真の充実した人生は送れません。
「衣食足りて礼節を知る」という諺があります。物質的にゆとりがあることは精神面に多大の影響を及ぼします。
それが分っているから皆さん頑張って仕事に励んでいるわけです。その物質面は並では平均のレベル以上には得られません。優れた技能、技術、知識があって、それを社会のために役立つ働きをして初めて物質的に潤います。
 「稲穂は実るほど首を垂れる」という諺があります。優れた技能、技術、知識を有して大きく社会貢献をすればその活動を通して人間は磨かれて行き、精神的にも充実することになります。
 人間は誰もが働いてお世話になっている社会にお返しをいなければいけません。同じ働かなければいけないのですから、条件の良い環境で活躍できるようにする。そのためには並ではそういう環境では活躍できない。
指導者は専門的な内容を通して、そういう物事の道理を弁えることの大切さを悟らせる。そして教えられる方も行うことの内容よりも、先ずそういうことの道理を習い取るということが肝要です。