2012年12月31日月曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No32


 皆さんに知って頂きたいのは、ゴムベルトというのはゴムの弾力で押さえます。
ゴムを伸ばせて縮もうとする力で押さえるわけです。したがって常に縮もうとする力が体に加わっています。それだけ体に圧力がかかっているのです。
その点、腰紐は体に軽くフイットさせておけばそれ以上体を締め付ける力が働きませんのでかえって楽なのです。
 着くずれに関しては最も大切なのは裾合わせです。裾は着崩れれば、脱いで一から着なおさなければ応急で直すということはできません。
その一番大切な部分に力が加われば伸びるようなゴムベルトを使用していますと、例えば座礼の時に所作が下手で裾を踏みつけたりしますと、ゴムは簡単に伸びますので、下に引っ張られて崩れる恐れが大です。
そういうことがあるから芸能界や日舞などの世界では絶対に腰紐を使うのです。
 腰紐の場合は腰に締める場合は、ここに巻き付けておけば腰紐がそれ以上は絶対に下がらないという位置があります。その位置で体に添わせるように締めて、後はおはし折の余った分を腰紐に絡ませておきます。その上から伊達締めが来て、帯で押さえますので体が痛くなるほど」紐は締め付けなくてもゴムベルトを使用するよりも着崩れは少なくて済みます。これが正統なる理屈であって、着付けを熟知している人ならこの説には逆らえないでしょう。



2012年12月30日日曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No31



私は芸能界で働いている時代にアルバイトでストリッパーの着付けを頼まれてしたことがあります。
着付けをしていく段階では最小限に腰紐を使うのですが、出来上がればすべて腰紐は外してしまいます。これは帯を解けば全てが解けて赤の蹴出し(裾除け)だけになって、バストが露わになるようにするためです。
帯を解くまでは音楽に合わせて普通に踊るのですが、紐がなくても少々激しく動いても着崩れません。
何を意味しているかと言いますと、技能があればそういうこともできるといことです。
腰紐のような細い紐で体を締め付ければ痛い苦しいという説明をしますが、確かに腰紐のような固い紐で強く締め付ければ痛い苦しいということになるのは当然です。それは扱い方次第なのです。腰紐は締めるという感覚でなくフイットさせるという扱いをすれば、着崩れないという役割をゴムベルトよりも果たしてくれます。
そして腰紐の方が安価で扱いやすいという利点もあります。また仕事も早くできます。
少し自慢をさせていただきますが、私は各家庭に出向いて着付けをする出張着付をもう30年以上しています。出張着付けのパイオニアであると自負しています。便利であるとご贔屓にしていただいていますが、家に出向いてくれるからというよりも、着ていて楽で着崩れないからと評価してくださっています。
あるお嬢さんは「先生の着付けに一つ欠点がある」「それは結婚式に行くと食べ過ぎてしまうことです」と有難いことを言ってくれました、最高の褒め言葉でそれを聞いて有難いと感謝しました。
結論としては技能さえあれば腰紐よりはるかに値段の高い新装小物を使わなくても、着崩れない着付けができるということです。

2012年12月29日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No30



 他の有名学院の母体は小物会社です。
物品を販売しなければ運営はしていけないことは確かですから、学院販売を反対するよりも、むしろ積極的に進めて行かなければ仕方がないという気持ちです。
ただ学院という名がついて人に指導する所では、合理的であるか否かを最優先しなければいけないと思います。それが人様から「先生」と呼ばれていることの責務ではないかと私は考えています。
 着付けという技能ですが、着付は「着ていて着崩れが少ない事」「着ていて楽である事」「綺麗な着装になっている事」「そして着付けが素早くできる事」これが最上であってそれ以上のものはありません。そういう着付が出来ればどういう手順で着て行ってもいいし、またどんな物を使っても間違いということがありませんが、各箇所にはここはこうすることがベストだという合理性というものがあります。
 例えば、着崩れが少ないという点を取り上げますと、従来通りの腰紐の着付けが一番よいのです。私は芸能界で衣裳の担当をして様々な着付けをしてきましたが、舞台や日舞などでは絶対に腰紐で着付けをします。激しい動きをしますので、腰紐でないと着崩れてしまうからです。
腰紐が着くずれを少なくするには一番なのですが、腰紐の着付けは苦しいという理由付けをして、大手のきもの学院では母体である小物会社のオリジナルのゴムベルトを入学時に買わせます。
奨める学院側としては、通常の着付けの場合はこれで十分に着崩れない。十分であればこちらのゴムベルトの方が腰紐よりも楽な着装ができるという理屈なんかもしれません。
着付けを知らない人はそのように説明をされれば「そうか」と思ってしまうかもしれませんが、着付けの熟達者である私から見れば、それは合理的なものでなく売らんがためのこじつけの理屈であると思います。

2012年12月28日金曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No29


 付のお稽古に来て、「楽しみ」をテーマに人生論をぶたれると、生徒たちはビックリして、着付けぐらいで「何を大仰な」と随分抵抗を受けました。中にはそういう堅苦しさが嫌で辞めて行かれた人も多数いました。それでも学院として運営していくには、信念と信条を貫き通すことが大切ですから、そのことを理解してくれない人は辞めて行ってもよいという考えでやっていました。
 教えるというのは戦いです。柔軟に思考しながらも自分の信念を押し通していかなければ侮られてしまいます。一般の学校の先生でも同じですが、生徒から侮られれば、生徒は頑張りませんので伸びません。駄目な先生の典型は自分が嫌がられるのはいやで好かれたいという思いが勝って、生徒の意向に合わせてしまう人です。
そういう確かな考えが持てるようになるには5年かかりました。やっと生徒から「先生」と呼ばれても面映ゆさを感じなくなりました。少しは指導者として成長したという感じです。
これで準備は整いました。準備は整いましたが、経営というものは手前の体制が整ったとしても、それで生徒が来てくれるというものではありません。
依然として経営の危機は続いていました。
学院経営は月謝だけでは成り立ちません。どんなに沢山の生徒が来てくれても、生徒の数が増えれば設備の充実や人件費の増加で赤字になってしまいます。

2012年12月27日木曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No28

お稽古に来られる方は、自分できものが着れるようになりたい。そう考えて来られるのですが、「何のために着付が出来るようになりたいとのか」と問いますと、答えに詰まってしまう方がほとんどです。
 現在は洋服中心の時代で、日本女性といえども自分で着物が着れなくても恥ずかしいという時代ではありません。そんな時代ですから必要に迫られて着なければいけないのであれば、その時は着せてもらえばいいのです。その方が合理的です。
こんなに着物離れが進み、自分で着物が着れなくても日本女性として恥ずかしいという時代ではない時に、わざわざお稽古するのであれば、積極的に着物を着て、きもののお洒落をして楽しんでいただく、良い気分になっていただきたい。そのためにお稽古をしていただきたいのです。
どんなお稽古事も楽しみを増幅させるための手段の一つ一つであって、根本目的は楽しみの増幅です。
 人生の充実は、如何に永続性のある喜楽を増幅さるかで決定されますので、お稽古を通して楽しみを増幅させると共に、永続性のある楽しみを所持することの大切さをお稽古の場を通して考えて頂く、それを学院の理念の基盤としました。
 楽しみについては別の項で記していますので、読んでいただければ幸いです。

2012年12月26日水曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No27

ピクニックセンターから見た甲山

 人の生き様は千差万別です。生き方や手段も千差万別に存在しますが、あらゆる枝葉は全て幹につながっています。
人は様々な手段を通して、また様々な工夫をして、如何に自分の人生を潤いのあるものにするか。即ち大きな幹にするかということで生きています。
人の生きていく究極のテーマ、即ち目的は自己の人生の充実なのです。
人は誰のためでもなく自分の人生を如何にして充実させるかを目的に生きています。
自分の人生の充実が生きていく目的ではありますが、自分の人生を大きな幹にするには、利己的に考えてはいけないのです。
 大きな幹は大きな根を張り大地を潤します。それと同様に大地である社会に大きく貢献した人が、より大きな根となり幹となり自己の人生も大きく充実させることができます。
人という字は人と人とが支えあった形であるといわれています。人は社会という人の群れの中で共存しています。
共存していることは確かですが、個々の力は微小で不特定多数の人たちに支えられて生かされてるのが真理です。支えあっていますので、支えれる力を大きくつければ、それだけ人生は大きく充実できるという図式になっています。
 このことは支えていることの充実感を味わった人でないかぎり理解できない。理解できないからこそ頑張れない。従って格差が生じてくるという人生の妙味となっています。

2012年12月25日火曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No26


 多くの着物学院が存在し、先生と言われる人も多数いらっしゃいますが、私の知る限りにおいては、自分で服飾史を語り、そして各時代衣裳の着付が出来る人は極少数ではないでしょう。そういう意味では専門的なことはなんとか責任を全うできるようにはなりました。ただ学院として運営していくに当たっては、技術や専門知識を熟知していることは何も特別なことだはなく当たり前のことです。
そういう技術的なことよりも、学院という組織で運営をしていくには、お稽古事を通してどのように社会に貢献していくかという理念が必要なのです。
 私は脱サラをしてまだ間もない時でしたから、最も大切なその部分が理解できていなかったのです。
最も大切な理念が欠乏していましたので、生徒たちから先生と呼ばれると何時も面映ゆい気持ちになっていたのです。
これでは指導者としては失格ですから今度は人生哲学を勉強しました。
お稽古に来る人の直接の目的は自分で着れるようになりたいということです。目前の目的はそこにありますが、着れるようになればどうなるのか。そこが最も重要な点なのです。お稽古に来られる人は何を求めて来られているのか。その根本目的に対する理解が重要です。
なんのために着れるようになりたいと希望してお稽古にいらっしゃるのか。
人は何のために生きているのか。お洒落は何のためにするのか。何の為に旅行に行くのか。何のために勉強をし、仕事をするのか。なんの為に結婚をするのか。それらのことをこれ以上の答えはないというところまで考え抜きました。
この結果として得た答えは、一つ一つの目標や、当面の目的は木に例えれば、一つ一つの枝葉にすぎないということです。枝葉は自己の人生という幹につながり根につながり、そして私たちを育んでいる社会という大地につながっています。枝葉は様々な形状を表し、様々に変化をしていきますが、そういう変遷をしながら、大きな幹を作り、大地を潤すために役立つ組織にならなければいけないのです。



2012年12月24日月曜日

エッセイ「人生探訪」No25


甲山から見た阪神競馬場

日本の服制は随、唐制の模倣から始まっています。
そして平安時代中期以降の藤原時代には唐制のアレンジではありますが、日本固有の服飾が誕生します。
それが男性は衣冠束帯であり、女性は唐衣裳(からぎぬも=十二単)姿です。
 服飾においてはそこが頂点で、武家の台頭によって簡略化が進み、下級階層の武家の服飾が武家社会では礼装となり、一般庶民の服飾の源をなしています。そして町人の経済力の台頭により町人の服飾に工夫が凝らされて現在に引き継がれています。
 服飾は独り歩きするものではなく、必ず各時代の社会背景に大きく影響を受けて変遷していますので、服飾を語るには社会背景を理解しておかなければいけません。そういう服飾史を先ず勉強することが私にとっての優先課題です。
その勉強は私には大変困難を極めました。
 例えば衣冠束帯の構成を列記しますと先ず小袖(こそで)、大口(おおくち)、垂纓冠(すいえいかん)、単(ひとえ)、衵(あこめ)、襪(しとうず)、下襲(したがさね)、半臂(はんぴ)、石帯(せきたい)、笏(しゃく)、剣と平緒(けんとひらお)、袍(ほう)、そして袍には脇が空いている闕腋(けってき)の袍と、脇の空いていない縫腋袍(ほうえきのほう)というものがあります。
 これらの漢字を読み込んでいかなければいけません。広辞苑では載っていませんので、一字一字詳細漢和中字典で引いて読んで書けるようにします。
そしてそれらがどういう形のもので、どういう役割の服で、どういう時に着るかを知らなければいけません。
 苦労をしました。苦労でしたが学院を維持しやって行くには必須ですから必死でした。
ただ幸いだったのは、私はそのものがどういう形をしているかは、ある程度分かっていましたので理解は早かった方だとおもいます。
 服飾史を語り、その着付けも全てできる。私は学者ではありませんので、この程度できれば指導するにあたって十分に責任の果たすことが出来る。そういう自信の持てる段階までは勉強しました。
 その勉強を通して分かったことは、その気になって必死でやれば、独学でもある程度はどうにか形にはなるということです。
これで専門分野のことについては先生と呼ばれても面映ゆく感じることはないだろうというところまでには至りました。

2012年12月23日日曜日

エッセイ「人生探訪」No24


一年経った段階で3人の生徒が残ってくれています。私にとっては希望の星ですから、配達の暇をみてはキチット指導をしました。その人たちは本当に長く私に付いて来てくれましたので感謝しています。
 私が子供の面倒を見て、妻は事務所に通うという生活の基本の形は離婚をするまで続きました。
配達のアルバイトをしながらこれからの経営を考えました。
 私のところは時代衣裳の着付専門学院として発足したわけですが、時代衣裳だけでは生徒は集まらないことがこれまでの経験で判然としました。
 女性の方は着付けを職業にするためにお稽古にくる人は皆無です。
折角親から支度してもらったきものがある。それがタンスの肥やしのままに眠っている。それをなんとか活かしたいという願望でお稽古にこられるのです。
その事が判然とすれば何時までも時代衣裳にこだわっているわけにはいきません。
そこで時代衣裳の専門学院から現代着装のお稽古の場に切り替える決心をしました。
 何段階かにクラスを分けて、上のクラスまでお稽古した人には、時代衣裳もカリキュラムに組み込んで指導するというシステムに変更しました。
 アルバイトの傍らでカリキュラムやクラス編成の書類を作成しました。子供の面倒を見ながらその作成に没頭しました。
 そして私自身にこのまま指導者としてやっていく上で大きな問題点がありました。
脱サラをして急に先生と呼ばれるようになったわけです。
当初は情熱だけで無我夢中でやっていましたが、一年も経過すると学院として指導していくには技術だけでは駄目だ、学院として運営していくには、また人様から先生と呼ばれる限りは、技術以上にもっと大切なものが必要であることが分かってきたのです。
 分かってくると、生徒たちから先生と呼ばれることに相応しくない自分であること。責任のある指導者としてやっていくには、様々な能力に欠けているという自覚はありましたので、それまでは生徒の皆さんから先生と呼ばれる度に面映ゆく、恥ずかしさに苛まれていました。
このことを克服しなければいけません。これを克服するのは勉強をする以外にありません。勉強をするには今はよい期間だと思って、アルバイトをしている期間に必死で勉強しました。


2012年12月22日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No23

                                                         甲山から見た我が家

 アルバイトはお中元、お歳暮の配達です。昭和50年代のことで、当時車を持ち込みで一シーズン終わった時には38万円位になりました。
 学院運営は最初の一年間は順調に推移していましたので、助手で手助けをしてくれる人を頼んでいました。
二年目からは女房に事務所の留守番に来てもらって、子供の面倒は私が見ました。
幼稚園の送り迎えは私がし、ご飯を食べさせて風呂に入れて寝かせます。勿論洗濯掃除も私がしました。
御中元の時は幼稚園は夏休みですから、朝車に商品を積んだら一度家に帰って子供たちを乗せて配達に行きます。
子供たちは車の中にジートしているのは退屈ですから一緒に付いてきます。
「この家」と私に聞きますと先にチャイムを鳴らし、「大丸です配達に来ました」と言っていました。
これは私にとっては忘れることのできない貴重な想い出です。
御歳暮の時は妻のお母さんが子供の面倒を見てくれました。
人は自分の力で成し遂げたように自慢をしますが、実はこのように多くの人達、特に肉親には大いに助けられていました。ありがたいことです。

2012年12月21日金曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No22

食べるものは少々我慢や辛抱ができますが、商売をしていますと待ったなしにお金は出ていきます。
幾ら蓄えがあるのか女房に任せ切りですので把握ができていなかったのですが、たいした額でないことだけは見当が付きます。
 子供がいることですから、そんなお金は当てにしないで、最低出ていくお金だけは稼いでこなければと焦っていました。
 生徒を募ると言いましても、大阪の中心地で基地を持っていますと宣伝に苦労をします。
周辺は事務所ばかりで住宅がありませんので、宣伝をすると言っても広範囲ですから、チラシ等の手段はお金が掛かって使えません。
また電車の中吊りなどの宣伝は莫大な経費が必要になります。
私のような零細なところが出来る宣伝は新聞の生徒募集欄に3-4行の短い宣伝文句を載せれる程度です。
それでも大変な費用が掛かりますので、ひと月に一回載せれる程度です。
そんな微小な宣伝でも、それをしなければ一歩も前に進みませんので、最小限度の経費に止めて載せました。
その程度の宣伝では直ぐに反応があるわけがありません。反応が無くても載せなければ前進がありませんので生活を切り詰めて広告掲載をしました。
 そして後は待つ以外にありませんので、アルバイトにいきました。

2012年12月20日木曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No21

一年が過ぎてカリキュラムが一巡しますと一区切りになります。
その段階で大半の人は辞めていき残ったのは3人だけです。
生徒の全てが、例えば京都着物学院とか、装道着物学院などの有名学院の先生方でした。
その人たちは各々の学院でキャリアを積んで活躍している人たちです。
着物学院の人達は現代着装だけしかできません。そういう状況下で、自分は時代衣裳も習って知っているということになれば、大いに自分の存在を誇示できますので、私の所に来ていたのです。
それを習って実践で活かすということであれば、週に一回のお稽古で、それも様々な衣裳の着付けを一年くらいで身に付く筈がありません。
一年位のお稽古では触れたという程度ではありますが、彼女たちはできなくても、自分たちの学院の中では十分に箔がつき、自分の存在を誇示できますので、カリキュラムが一巡した段階で辞めていかれたのです。
考えてみれば辞めて行かれるのも無理はありません。
習って出来るようになったとしても、活躍の場がないのでから、当然といえば当然のことで、みんなが辞めて行くことが自然なのです。
ただ残念に思うのは自分自身の不甲斐なさです。
一年間もお付き合いをさせていただいたのですから、自分にもっと魅力があればもう少し残ってくれていたかもしれないのです。
それだけ自分に魅力がなかったのだと思い知らされました。
 さぁーここからが試練の時代に入ります。
必要経費は月に12万円程度必要です。住まいの方の家賃と生活費が必要です。
折角始めた学院運営ですから簡単には辞められません。というよりは辞める気もありません。
私にとってはここが最後の砦ですから、なんとしてでも持続させなければいけないのです。

2012年12月19日水曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No20

きもの学院を開校して120人の人が来てくれました。
時代衣裳という特殊な着付ですから当初から月謝10000円で一年間のカリキュラムを組みました。
120人ですから一ヶ月1200000円の収入です。
私が会社を辞めた当時の給料は6万円台でした。
家賃その他の諸経費が15円位です。
 家計はサラリーマン時代から女房に任せていましたので明確にはわかりませんが、差し引きしますと90万円位残る勘定になります。
 私はお金のことよりも慣れない指導者としての勉強に追われていましたので、お金のことは全く関知しないで女房に任せていました。兄から借りたお金は直ぐに返したということでした。
順調な滑り出しです。
私は教えることに没頭していればいいのですが。これが慣れないものですから覚えることが一杯で大変な苦労です。
 苦労ですがしんどいと思ったことがありませんでした。ここがサラリーマンと自営と大きく異なるところです。
教えるようになって先ず思ったことは、みんなの前で理路整然と話をするということの困難です。
これが最初に立ちはだかる私の障害でした。
これは慣れるしか仕方のないことですが、話し方というものは直接生徒の抱くイメージにつながりますので苦労しました。
理路整然と話すというだけでなく、声の安定性が求められます。
聞いている人が安心して、そして落ち着いて聞ける声の響きが必要です。
そのために詩吟のLPを買ってきて声を鍛える勉強もしました。
教えるということは何よりも自分の勉強になるというのは真実です。
技術面では自信があってもそれを伝える言葉は難しいのです。
 教えるということは様々な才能が要求されることを知りました。
今考えれば、この一年間は教えるというよりも全く自分の為の勉強に終始した感があります。
その時の生徒さんごめんなさいです。あっという間に一年が過ぎました。

2012年12月18日火曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No19

始めるに当たっては教室となる基地が必要です。給料の安い会社ですから蓄えはありません。
そこで女房の兄が有名企業の役員をしていましたので資金融資を頼みました。
私は結婚をしてから住居は女房の実家の近くに構えていました。よくあるケースです。
したがって女房の実家には頻繁に行き来をして、何かあると親の手助けをしていましたので、親の面倒を良く見てくれているといことで、心安く貸してくれました。
立派なビルのテナント料は高くて借れません。ビルは立派でなくてもいいから安くても表通りに面した所という条件で探しました。
 梅田の扇町線の表通りに面した小さいビルですが、空いていましたのでそこに決めました。
三階を教室にして二階を事務所としました。家賃はたしか11万円位だったと思います。
辞めた当時の給料は6万円代だったと思いますので、目算が狂えばたちまち倒産です。
学院の名称は様々に調べましたが、そういう名称が存在しませんでしたので「日本きもの学院」と命名しました。
いよいよ第三回目のスタートです。

2012年12月17日月曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No18

東京転勤が本格化してきました。
私は時代劇ができましたので、それまでにも東京の新宿コマなどに応援に行ったりして、東京の生活を肌で感じていました。環状線に乗りますと、乗ってる人の服装を見ますとそんなに高級な服装をしている人は少なくて質素です。私は阪急神戸線を通勤に使っていましたので、それと比較すると随分質素な服装の人が多いなぁーと感じていました。
東京はエンゲルケースが高いから、その分質素に暮らさなければ仕方がないからではないかと思っていました。
 衣裳会社の給料は安いのです。そんな給料で東京で生活をしなければいけなくなると、子供を大学に行かせてあげることができないだろう。可愛い子供と別れて単身赴任なんてもってのほかという考えでしたので、東京転勤を拒否していました。
 そんな時に教えに行っている各着物学院の先生方が、「先生学院を起こしはったらいいのに、起こせば私たちお稽古に行きますよ」と言ってくれました。
 ヘッドハンチングなんてことが世間では行われていますが、そういうのは余程優れた人たちの世界のことであって、一般的には学校から正式に入社した会社を一度辞めれば、それ以上の条件の会社に再就職出来ることは日本ではまずありません。
そういう意味では私はサラリーマンとしては失格者ですから、失敗してもこれ以上に失うものもないので、そう言って下さる人たちの言葉をありがたく受け止めて、やってみようと決断をしました。

2012年12月16日日曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No17

私はきもの教室に時代衣裳の着付けを教えますのでやりませんかと営業にまわりました。
きもの教室の前進は和装小物会社です。
自社で開発した小物の使い方を、デパートなどで使い方の説明販売をしていました。
それが発端になり、自分で着れない人が増えているので、人を集めて着付け方と、自社のオリジナルの小物をセットにして売ろうという形で始まったわけです。
その方が確実に小物が売れるという企画で始まりましたので、大手のきもの学院の母体は小物会社がほとんどです。
 指導者は以前は営業の販売員であったのが学院という組織で始めたものですから先生となりました。
その先生方は着付けのプロではなく、私たちに言わせれば素人の集団です。
それでも時流に乗ってきもの教室は大ブレークしました。
目をつむって石を投げればきもの教室に当たると言われるくらいに一時は数多く存在しました。
それが証拠に出張着付けにいきますと、大方の人は学院オリジナルの小物を所持されています。
市販されていませんので、それを持っていればお稽古したという証になるわけです。
 私が営業に回り始めたころはブームのピークが終わり下火になりかけていました。
着物学院のあり方を改革しなければいけない時期に入っていた頃です。そういう時期に差し掛かっていましたので危機的意識があったのでしょう。私が教えますから習いませんかと営業に回りますと、直ぐにやりたいという先生方が出現しました。
芸者、舞妓、十二単などの衣裳を担いで講習に出かけます。
今からおよそ40年前で一回の講習に教材費を入れて8万円位頂きました。
会社でもこの試みを本格化させて人を養成していけば、映画、舞台、テレビの仕事に派遣ができる。
それを謳い文句に人を募れば人が集まるのではないかと思い、その企画を会社に進言したのですが取り上げてもらえずに、東京転勤が本格的に決まる形勢になってきました。

2012年12月15日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No16

映画の時代劇はテレビ映画だけになってしまい、それも少数です。
その内に大映が閉鎖し、松竹撮影所も閉鎖して東映だけが残りました。
東京での制作は主に現代劇で、時代劇は東映の太秦だけになりました。
京都東映は時代劇が盛んでしたので自社で衣裳も所持しており、衣裳担当の社員もいましたので私たちは必要がありません。
残る仕事場は劇場の芝居かテレビです。
 大阪というところは不思議な土地柄です。純粋なというか高尚なお芝居の劇場は人が入らないので次々と潰れていきました。
テレビ局のドラマ制作は現代劇が主ですから私たちは必要ではありません。大阪のプロダクションは仕事の多い東京に拠点を置くようになりました。
関西で育った俳優でも席は東京にあります。そのタレントをドラマ製作で関西に呼びますと、ギャラの他に交通費、宿泊代が必要で経費が高く付きます。
そんなことで関西でのドラマ制作が激減していきました。
映画は駄目、芝居もテレビも駄目になり関西の会社は成り立たなくなりました。
そこで会社は東京に転勤する人を募りました。
何人かはそれに応じて行きました。
全盛の時は終わってから仲間とよくマージャンをしましたが、そのメンバーが集まらなくなりました。
 そこでそれまでは映画会社やテレビ局や劇場の仕事をしていたのですが、そこはもうダメなことは明確ですから、一般部を設けて一般の会社や団体が催事の時に衣装が必要であれば貸し出そうということになりました。
その段階で思いついたのが着物教室です。
以前万博の時に一緒に仕事をしたことがあるので思い出しました。

2012年12月14日金曜日

甲山に登りました



40年振りぐらいになるでしょうか。久しぶりに甲山に登りました。
神呪寺にお参りしてから寺内から登るコースで山頂を目指しました。
山頂までは309mということで、若い時はあっという間に登れたのですが70歳にもなりますと結構きつかったですね。
山頂にいたりますと周囲は樹木に囲まれて全く海の景色も宝塚方面の景色も見えません。
 甲山は西宮のシンボルでもあるわけですから、山頂まで登れば周囲の景色が楽しめるようにしてほしいなぁーと思いました。
折角登っても景色が楽しめないというのはつまらないですね。
 甲山は登り口が三ケ所ありますので、下りは自然の家の方向におりました。少し歩きますと仁川のピクニックセンターと五ケ池があります。
ここもたいへん懐かしい所です。
 阪神百貨店の公休日は水曜日で、木曜日は阪急だったと思います。
水曜日か木曜日に五ケ池に行けばデパートの女性が来ているかもしれないからと行って、阪神の女性と知り合いお付き合いをしました。その後、飯盒すいさんに行ったり、たしか五ケ池では貸ボートもあって彼女とボートに乗ったりしたのですが、今はその五ケ池には入れないように柵が巡らされています。
そういう自慢げな話をしながら、妻に見せてやりたいと思って連れて行ったのにガッカリです。ピクニックセンターは人があまり来ないのでしょうか。人が頻繁に来て遊んでいる形跡が感じられません。
時代は確実に変わっています。

2012年12月13日木曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No15


 私も必死で着せました。足袋の履き方がわからないので足袋専門に履かせる者を連れてきて、履かせてもらいました。
私が着替えの場にいますので、最初は出て行ってほしいとクレームがつきましたが、彼は着付けのプロフェッショナルだからと説明をしてもらいますと分かってくれました。
分かってくれますと外人の人は恥ずかしがらずに支度をしてくれますので助かりました。
一つ困ったことは、日本人の女性はショーツの上にパンストを履きますが、外人は直接パンストを履いていますので足袋を履くのをどうするかということです。
パンストの指先を緩めて股を作ってその上に足袋を履くか。それとも脱いでしまうかということです。脱いでしまう人のほうが多かったです。
その場合は、上はブラジャーを付けたままでよいといってありますので、問題は裾除けです。勿論着け方はしりませんので、バスタオルを巻くようにとにかく巻いて頂いておいて右、左と交互に見えないように交差して着付けるのです。
勿論チラッと見えたりするのですが、不思議ですね仕事の時には何の意識も湧きません。淡々と仕事をこなすだけでした。
なんとか本番までに間に合ってほっとしました。
同じ模様の着物と帯びですが500人も揃いますと壮観です。
初めて着る振袖に各パビリオンのコンパニオンの皆様は大変喜んでいました。
パレードが始まりますと私を見つけたコンパニオンの皆様は、私のところに来て皆さんキスをしてくれました。頑張ったお返しですね。


2012年12月12日水曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No14


きもの学院の人たちはどの程度の技量があるか、その段階では全くわかりませんので心配でした。
その心配していたことが現実となりました。
仕事をしていると宝塚歌劇組みの知り合いが。「飯山さんうちの人達と着物学院組みがもめてる」と知らせにきました。その原因は着物学院組みの人が、そんな着付け方は違うとクレームを付けてきたことが原因だということがわかりました。
 そこで皆を集めて怒りました。着付というものは着ていて楽で、着崩れがしなくて、出来上がりがきれい、そして早く着付けが出来ることが最良です。そういう着付けをする手順はこれでなければいけないということはない。こういう時間と競争している大変な時に、「そんなつまらないことで揉めるなんて」と怒りました。
着付け方なんかどうでもいいからなんとか時間までに上げて欲しい。そう怒鳴って自分の持ち場に帰りました。
 後に自分が各着物学院の人と交わるようになって分かったことですが、きもの学院の先生方は、芸能界の仕事など、本格的な仕事の場では使いものになりません。
 それでも自分たちは着物学院の先生であるというプライドだけは高いのです。
そのことは後に自分が学院を起こして分かったことで、その時はまだわかりません。
わかりませんがその場に来ている人の動きを見ていると、一目見てこれでは使い物にならないと直感しましたので、知り合いの宝塚組みを呼んで、着物学院組みはあてにならないのであんたらが頑張ってほしいとはっぱをかけました。

2012年12月11日火曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No13


 お祭り広場では色々のプログラムが展開されましたが、今となってはあまり覚えていません。
一番覚えているのは万博開催最後の日のお祭り広場でのさようならパレードです。
東レが500着の振袖をプレゼントして、世界各国のコンパニオンが振袖を着てパレードに参加しました。
500人の外人にきものを着せるのです。お祭り広場の衣裳関係は東宝系が下請けで出向していました。
東宝は阪急系列ですから宝塚歌劇の衣装部の人が応援にきてくれました。
この人たちとは以前に舞台で一緒に仕事をしたことがありますので知り合いです。もう一組きもの学院の人も応援に来ていました。
なんとか本番までには500人着せなければいけません。着せる方は私を含めて20人程度です。
皆を集めて形よりも消化することを優先させて一人で20人は着せてくれと頼みました。
宝塚組みは同じ幕内の人たちですから技量は分かっていますが、着物学院組は全くわかりません。
誰が連れて来たのか事前の知らせも顔合わせもありませんでしたので、その人達の技量が心配だったのです。



2012年12月10日月曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No12


名古屋祭りに行きますと50人位を一人で着せるのです。
着付は女性の仕事のように思われますが、こういう仕事は女性では無理ですね。
もう40年も昔の話です。その頃は若い女性でも、きものの下着の付け方ぐらいは皆さん知っていました。ですから肌着は自分で着てくれましたが、中には肌着が自分で付けれない人がいました。
そんな場合は良く知っていそうな人を見つけて付けてやってくれと頼みました。
 私も独身の時ですから松坂屋の女性の何人かとはそういう会話の中でお友達になりました。後日名古屋のテレビ局に時代劇の応援で出向いたときは、お友達になった松坂屋の女性を誘って食事などにも行きました。
大変きつい仕事でしたがそんな楽しみもあり結構好きでやっていました。
 またこの仕事をしていて大きな思い出になったのは万博のお祭り広場の催事の担当で出向したことです。
半年前からプロジェクトチームを編成して準備を始めました。
このときに思ったのは英会話ができればもっと面白かったのになぁーということです。

2012年12月9日日曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No11

家康隊ですから時代は江戸時代です。しかし家康が生きていた時代の衣裳は安土桃山時代の小袖なのです。男女共に対丈で、帯は男性の角帯びと同じような細帯です。
それだと仕事が早くて楽に着付けができますが、私の会社は天正物の小袖の綺麗な衣裳がなかったので、江戸時代後期の裾引きでごまかしていました。因みに江戸時代の衣裳は前期は天正もの、江戸時代後期は江戸ものといいます。衣服の過渡期は前の服装と後の時代の服装は長期に渡って交錯するものですが、それだと分かりにくいので8将軍吉宗の時代を境目として区別しています。享保の後は江戸ものになり、奥御殿女房の服は裾引きになります。
家康存命の時代はまだ天正ものなのですが、わが社は江戸ものを用意していましたので着付けは大変でした。有難いことに松坂屋の女性達はよく協力をしてくれて、なんとか本番までには毎度出来上がっていました。毎度というのは五年くらい祭りに行きました。
これも時代劇を知っていたからですが、時代劇が出来たために他社の舞台にも応援にいかされました。お蔭で様々な衣裳会社の人たちとも交流ができ、仕事を教えていただきました。

2012年12月8日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No10


 テレビ局で時代劇の制作をしますと、大道具や小道具、衣裳、鬘など現在劇よりも制作費が高くなりますので、時代劇は撮影所で制作をしてテレビ局は放映するだけというパターンが定着し、テレビ局での時代劇制作は極端に少なくなりました。
 時代劇の仕事がテレビ局や撮影所で少なくなりましたので、一般事業部の各地のお祭りの仕事によく行きました。
各地でイベントとして大名行列を行うのです。
一番大きな祭りの仕事は名古屋祭りです。家康隊、信長隊、秀吉隊の三隊が名古屋市内を練り歩く大名行列です。私の会社が引き受けていたのは家康隊です。
殿様、局10人、腰元30人武将50人というような規模の仕事です。
それを一人で行って着付けるのです。局、腰元は松坂屋の女子社員が応援で扮装しました。
男子は殿様だけは着付けて、後の武将は自衛隊が応援出演をしていましたので、隊の指揮官を呼んで着付方を教えて自分で着付けをしてもらいます。武将は武者行列で上に鎧を着ますので、着付けは目立ちませんので衣裳だけ渡しておきます。
私が着せるのは女性だけです。行列は昼からですから9時位から着付けを始めます。
 支度部屋に行きますともう松坂屋の女子達は来ています。
その中で私一人が男性です。着替えなければいけません。彼女たちは素人の人たちですので男性に着付てもらうことはおそらく初めてでしょうから、恥ずかしくて躊躇しています。
もたもたしていては行列の時間までに消化できません。恥ずかしがらずに足袋と肌着だけは自分で付けてほしいと頼んでおいて、助手がいませんので、彼女達を一列に並ばせておいて、次に着る人に紐持ちなどの助手をしてもらって着せました。

2012年12月7日金曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No9

時代劇の仕事が少なくなってきましたので大阪に帰ってきました。
この時代になりますと映画よりもテレビ時代の到来です。テレビ局では各局でドラマ制作が盛んになりました。
時代劇が入るとテレビ局に常時派遣されている人は時代劇ができませんので、臨時でその番組だけ応援に行って仕事をします。
今はテレビ局の主だった部署は業者に任せていますが、開局当初は衣装部にもテレビ局の社員がいました。
何をするにもその人に了解を得てからというように、非常に堅苦しい雰囲気で仕事をしなければいけなかったのです。ですがその局の衣裳部の人は時代劇が全くわからないので私たち業者に全てお任せです。いちいちお伺いすることもなく仕事ができましたので、大変仕事がしやすく時代劇をできるようにしていてよかったと思いました。
この時代劇が出来るようになったことが後に着物学院を開校できる原動力になったのです。

2012年12月6日木曜日

西国観音霊場十一番札所 醍醐寺

春はよし 秋もまたよし 醍醐寺は
      妻と一緒に 神に寄り添う

醍醐寺の写真ですご覧ください

http://youtu.be/I6EtRaJBJT8

2012年12月5日水曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No8


 生放送の時は忙しかったのですが終わりの時間ははっきりしていました。
ところがビデオの時代になりますと、編集が可能ですから撮影も細やかになり、それだけ時間が掛かるようになりました。そして役者がかけ持ちができますので、役者のスケジュールに合わせて徹夜の撮影が多くなりました。
いつ帰れるかも分からなくなり、付き合っていた彼女ともうまくいかなくなったりしましたが、仕事を覚えることが多いので結構頑張って仕事をしていました。
 最初は現代劇の担当をしていたのですが、会社では時代劇が出来る人が優遇されていましたので、自分も時代劇を覚えたいので、京都の撮影所に行かせて欲しいと願い出て京都でアパート生活をしました。
 時代劇の撮影は道が舗装されていない所、電柱が映らないところと場所設定に制約がありますので、どうしてもお寺や亀岡の山の中、琵琶湖の湖畔という場所が多かったのです。山の中に行きますと昼食に困ります。
食べるところがないのです。そんなに苦労してやっと時代劇が一人前にできるようになりました。
力が発揮できるようになった時分に時代劇が下火になり、映画はヤクザ路線に変わっていきました。

2012年12月4日火曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No7


 健康保険がある会社という条件での就活の始まりです。私たちの世代には新聞の応募欄が就職探しのメインでしたので、新聞の求人欄を見てさがしました。
 現在でもそうですが就職するにあたってはやはり学歴が求められます。
養成校は高校生並みに三年間勉強をしましたが、企業の教育機関であって学校法人でないために学歴は中学卒です。中学卒では飲食店の店員か工員か職人見習い位しか求人はありません。水商売は嫌ですから、鉄鋼所に面接 に行きました。
面接だけでなくペーパーテストもありました。翌日に採用通知がきました。来ましたが神戸製鋼を辞めて同じ鉄鋼関係に就職すれば、私は本当の馬鹿者になってしまいます。折角採用通知をいただきましたが行くのをやめました。そうこうしているうちにテレビ局への派遣社員の広告を見ました。
そこには学歴も問われていませんでしたので、面接に行きました。
何も分からずに行った会社ですが、それが私の人生を決定づけるものになりました。
そのきっかけは歯痛ですから人生は不思議です。
 何をする会社かも知らずに、とにかく入社をしました。それが映画、演劇、テレビ局に衣裳をレンタルしている会社です。
 派遣に先駆けてきものの畳み方や羽織の畳み方、袴の畳み方を教えられました。それができれば先輩の手伝いができますので先ずそれを教えられてテレビ局に派遣されました。
最初に派遣されたのは大阪NHKです。BKと言われていました。
当時はビデオがありませんのでドラマも全て生放送です。
これから何処かに出かけるというシーンがあれば大変です。
セットの脇でゴザを引いて大あらわで外出着に着替えます。
すべてのスタッフは走り回っていました。
それからしばらくしてビデオテープが出てきました。
シーン割で撮ってつなげますので慌しく着替えるということがなくなりましたが、役者が掛け持ちできるようになりましたので、役者のスケジュールの都合で撮影時間が長くなるという私たちにとっては嫌な状況になりました。

2012年12月3日月曜日

選挙を迎えるに当たって


日曜日の政治討論会で、集団的自衛権に付いて話しておられました。
例えば、日本が他国から武力攻撃を受けた時はアメリカは武力攻撃を行使して助けてくれる。しかしアメリカが攻撃を受けている時は、日本軍が近くにいたとしても武力行使をして助けられない。こんなおかしなことはないでしょう。
こんな異常な状態では独立国として恥ずかしいでしょう。こんな状態で沖縄問題を解決できるはずもありません。
 独立国として対等に外交を行うためには、集団的自衛権を行使できるようにしなければいけない。これは当たり前のことだと思うのですが皆さんはどう思われるでしょうか。集団的自衛権を承認することは、戦争に発展させる恐れがあるから反対だという意見を唱える党があります。
この意見を聞いていて我々国民を侮辱している。国民を侮った意見であると怒りを覚えました。。
 今は完全に国民主体の時代です。戦前とは違うのです。国会議員は私たちの代表というだけであって、大切な事案は国民が決めるのです。
集団的自衛権を行使出来るようにすれば、外国侵略をすることはできるという意見は、国民を無力化し無視した意見です。現在はそういう重大なことは国民がきめるのです。そんな馬鹿な判断は国民が許しません。それが民主主義なのです。だから議員に任せるのではなく国民が確りと監視して、政策の判断を選別するために皆が選挙に行かなければいけないのです。
 民主党は約束にない。約束にないだけでなく猛烈に反対をして政権を担ったのに、野党と談合して消費税を上げてしまいました。
 消費税は現在の国の財政を考えればいずれは上げなければいけないと思いますが、だからといって約束をしていない重大な案件を決議するということは次元の異なった話です。
 約束外のことを決めるのは民主主義政治にたいする違反行為です。そんな重大な違反を平然とする党は国民の英知で排除しなければ、国民主体の政治を守ることはできません。今回は鉄槌を食らわせましょう。

2012年12月2日日曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No6


 会社を辞めて専門学校に行こうと思いましたがお金がありません。
働かなくても家で食べさせてもらえるというような経済状況の家ではありませんので、とりあえずはアルバイトをしなければということになりました。
阪神百貨店の屋上に子供向きの遊戯機や乗り物が設置してある遊び場があります。
そこでアルバイトをすることにしました。
そこには小さな事務所があって仕事が終わってからも使っていいと社長が言ってくださったので仕事が終わってから少し勉強などをしていましたが、何になりたいという具体的な目標のない勉強はそんなに熱がはいりません。自分の気持ちを紛らわせるパホーマンスにしかすぎなかったのです。
そうこうしているうちに歯痛に襲われました。我慢のできる痛さではありません。
あまりの痛さに唸っていると社長が親切に八階にある歯医者に連れて言ってくれました。
あんなに苦しんでいた歯痛も麻酔をして治療をしてもらいますと嘘のように痛みがとれました。
社長には親切にしていただきましたが、同じようなことがあれば困るので保険がある何処かに席を置いておかなければいけないなと考え再就職の場をさがしました。
馬鹿ですね。何かしたいことがあれば会社に席を置いておいて、そして準備をすればいいのに、若い時は自分の気持ちの制御ができないで、好き嫌いだけで性急に判断を下してしまうのですね。

2012年12月1日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No5

職場に配属されたときにその職場に見習工が一人いました。その人と話をしますと私の中学校の先輩です。その人はやくざの組に入っていたのですが、母親が真面目になって結婚をして孫の顔を見せてくれ。
孫の顔を見てから死にたいというので堅気になるために働いているということでした。
 神戸製鋼は職員は主に学校からの採用ですが、工員は中途採用していました。一年見習期間を終えた者が正社員になれる試験があります。見習の期間は給料も安いので入ってきても直ぐに辞めていく人が多いのです。
 その先輩と直ぐに仲良くなってよく遊びました。飲みに行きますと飲んだ勢いで若いですから喧嘩をしました。
先輩は自分から喧嘩を売ることはありませんが、喧嘩になれば元やくざですから絶対に引きません。
物凄いことになるときもあります。そういうことが会社に知れれば臨時工は直ぐに首になりますから、会社に分からないように庇って隠しました。私は人事部に呼ばれて説教をされました。普通なら首ですが何時も説教だけで終わっていました。養成工としてお金を掛けて教育していますので大目に見過ごしてくれていたのです。
ある時は裁判所に親同伴で呼ばれたことがあります。知り合いの悪餓鬼は少年院に送られた者もいます。
ところが私は仕事は真面目に行っていました。そして神戸製鋼所という良い会社に勤めているので、これが原因で会社を首になっては可哀想だからと厳重注意で許してもらったこともあります。
 親父が言うように辞めてしまっては惜しい会社であることは自分でも承知をしていましたが、私にとって良い会社というのは自分の描いている夢に繋がることであって、生活のためだけに働いている会社はよい会社とは思えなかったのです。
自分にはそういう気持ちがありましたので、何の惜しげも躊躇もなく辞表を提出しました。
そうすると会社は「余所の花は赤く見えるものだから三年間休職扱いにしておいてあげる」といってくれました。そんなにありがたいことを言って下さったのに若さは無知で愚かですから義理に背いて正式に退社してしまいました。