2011年10月31日月曜日

襟合せ

小袖が衣服の中心になった桃山時代には正式には白の小袖、色の小袖、柄物の小袖と三枚重ねていました。
 当初小袖の着装方は写真に見られるように一枚づつ前合わせをして着装していました。
 平和な時代が続きますと優美に成ってくるのは世の習いで、元禄頃になりますと丈が長くなって屋内では裾を引いて着装するようになります。
寛延年間(1748年~)になりますと更に丈が長くなったと文献にあります。
 丈が長くなって裾を引くようになりますと着物を保護することと、裾さばきがしやすいように裾にふき綿がいれられるようになります。
 裾が長く成って引きずって着装するようになりますと、一枚づつ別々に打ち合わせをして着装しますと足にからまって裾さばきがしにくくなりますので、写真に見られるように下着と表着を合わせて一緒に打ち合わせをするように着装方が変わっていきます。
 安永(1722年~)天明(1781年~)には二つ襟、三つ襟と重ねて着るようになったとあります。
 裾を引いて着装するようになりますと反物の長さが長くなり、切ってしまっては勿体ないので長く仕立てるようになり、おはし折をして着装するように変わってきます。
 反物の幅も裾引きの時代になりますと現在とほぼ同じような幅になり、身幅も狭く仕立てられるようになります。

2011年10月29日土曜日

和服の襟合わせ左上前は何時から

写真は古代の女の服装です。
女子は衣裳(きぬも)様式です。
女性の写真を見て頂ければわかりますが古代の襟合わせは左衽(さじん)です。
よく右前とか左前とか言います。前とは体に接する方という意味です。
衽(じん)も前と同じ意味で体に接する方のことです。
右前と言いますと右側が体に接する方で、左側が上に来る方です。きものは現在は左上前。即ち左側が上に来る打ち合わせです。
中国の万里の長城よりも北側に住む人を、胡人と言い、胡人が来ている服を胡服といいます。
胡人とはえびす人、即ち未開文化の人達で中国では野蛮人として扱っていました。
その胡人の衣服の打ち合わせは左前でした。
中国では野蛮な胡人が来ている衣服が左前でしたので、胡人と一緒であることを忌み嫌って衣服の打ち合わせを右前にせよと布告します。
その中国に倣って日本でも元正天皇養老3年(719年)に天下の百姓~国民に襟を右衽にせよという布告を出します。
それ以来和服の襟合わせは男女共に右前に打ち合わせるようになりました。

2011年10月28日金曜日

和服の柄と装身具の起源

写真は古代の女性像です。
古代では何かが有る時は、写真にみられるように女性は鬘(かつら=草花で髪を飾る)を巻きました。
これを桂とも言います。
頭に巻くターバン針巻ともいいます。
  このルーツは挿頭花(かんざし)で、花の生命を自分の体につけることによって、自分が元気になり、幸せになるという生命触れ合いの信仰からきています。
 現在でも花嫁が結婚式の打掛を着た時に角隠しをします、それも鬘であって女が聖女になるため、神に仕える女になるために巻くものです。
人間も自然の一部ですから自然の中に調和して、自然のサイクルと生命のサイクルが一致していれば幸せなのです。そのために自然のものを身に付けて生命の活力を得ようとしたのです。
 生の植物を装身具にする知恵から次第にそれが進化し、糸花、鼈甲(べっこう)、珊瑚、金銀にと取って代わられるようになり。草花は着物の文様として残っていきます。それが和服の柄です。
 和服の柄は審美的に模様を配するというよりも、自然崇拝の信仰心から来ています。

2011年10月27日木曜日

家紋


写真は私の家の家紋です。
柏に剣があしらっていますので剣柏と言います。
紋の起源は公家が牛車、また家具調度品、衣服に付けた文様に由来します。
飾りとして付けた文様がいつの間にかその家の所持品であることを表すようになり、その文様がその家の家名を象徴するように発展します。
武家は戦場に用いる旗印です。紅白の色によって源平を区別したように、時代が進むと各大名が軍旗として定まった文様をつけるようになりそれが素襖、大紋にみられるように礼装の衣服に文様が付けられるようになります。
小袖にも紋が付けられるようになるのは江戸時代の中期以降です。
宝暦(1751年~1764年)頃には一般の家でもだいたい紋があったと言われています。
一般庶民が紋をもつように成るのは、武家が公服として用いていた紋付羽織袴を自分たちの礼装として取り入れたことが大きく起因しています。
江戸時代には富裕な町民は紋付き羽織袴を礼装として着用しましたが、それは富裕層だけで貧しい階層の町人は礼服を所持していない者が大半でした。したがって紋も必要でなかったものが次第に文化が発展していき全般に広がっていきました。
男性は各家に家紋というものがあってその家紋を用いますが、女性の場合はどうすべきかがよく問題視されます。
現在は結婚をすれば女性は夫の姓になりますが、元来女性は実家の姓を名乗るもんでした。
婿入り婚の名残です。関西では紋も女性は実家の紋を付けるのが習わしで、現在も結婚式では実家の紋を付けるのが建前です。女性の紋は母系を継承するということです。
結婚式は本来は男性を招く式であったからです。
但し結納で紋服料として仕度料を頂いた場合は相手方の紋服を用意するという事があります。
 関東と関西の風習に少し異なりがあります。

2011年10月26日水曜日

匹田絞り

絞り方には様々あります。

(1)巻絞り=糸で括って防染する絞りの総称です
・鹿の子絞り=匹田絞り目絞りの総称です。
匹田絞りは四角形の絞り目を斜め45度に粒を揃えて埋めて

いく絞りです。
写真の鹿の子と記している部分の絞りです。これを布全体

にびっしりと絞ってあるのが総鹿の子絞りです。

匹田には本匹田、中匹田、ばら匹田、人目とあります。
本匹田は糸を7~8回巻き付けます。
中匹田は糸を4~5回巻き付けます
ばら匹田は写真の部分のようにまばらに絞る匹田です
人目は下絵の線部分を粒と粒の間隔を詰めて一粒づつ絞っていって、図で見るように模様を絞りで描くものです。人目は二回糸を巻き付けます。

巻絞りにはそのほかに・手筋絞り・養老絞り・蜘蛛絞り・巻き上げ絞り・嵐絞りなどあります。
また巻絞り以外に

・縫い絞り、・桶や箱、ビニールや綿などを使って絞る方法などあります。
これらは専門的になりますので「着付名人」で検索すれば私のホームページが開きます。トップにきものの知識というカテゴリがありますので、それをクリックしてくだされば詳しく記してあります。

2011年10月25日火曜日

絞り


写真A=丸い絞りの白の部分に絵模様を刺繍で柄付けしてある小袖です。
写真B=左の人物は絞りの小袖を着用し、右の下級者は型染めの小袖を着用しています。

奈良時代には染の三纈(さんけち)という染法がありました。
その一つが纐纈(こうけち)という絞り染です。
江戸時代の元禄期に扇子の絵師であった宮崎友禅斎によって友禅染が考案されるまでは、高級小袖の絵柄工法は絞りと刺繍です。
室町時代には簡単な型染が行われていました。
現在NHKで「江」が放映されていますのでごらんを頂きたいとおもいます。
下級者の小袖は簡単な型染のものが着用されていますが、権力者が着用する小袖は絞りと刺繍です。

総絞りの着物の絞りは匹田(ひった)絞りといいます。
匹田には絹ものを絞った京鹿の子と有松、鳴海絞りに見られる綿絞りがあります。
絞り方は一緒です。布を細かく三角上に畳んで先を釣り針状の金に引っ掛けて防染用の糸を巻きつけます。物凄く細かい技術のいる仕事です。
今でも名古屋の鳴海、有松に行きますと仕事場が見学できます。
一反を絞るのに物凄い手間がかかります。それだけに大変高額なものになります。
江戸時代に主に若い者向けの高級小袖や振袖に絞りが使われていたのですが、奢侈禁止令によって使用が禁止されます。それ以降は匹田は主に型染ものになります。
絞りは第二時世界対戦時にも贅沢品として使用が禁止になっています。
戦後経済が復興して、絞りは華やかですから総絞りの振袖や小袖が着用されるようになりましたが、絞りは友禅ものと比較しますと、前時代の影響を受けて格式が下とされています。

この秋に宮中において園遊会がありました。なでしこジャパンの澤選手も招待を受けて出席をされていましたが、友禅の振袖を着用していました。そのように公の社交の場では絞りは華やかですが格式からいえば相応しくありませんので知っておいてください。

2011年10月23日日曜日

胴服

写真は「江」のドラマの一場面です。
上に着ているのは胴服と言います。
公家や武家の上級者が普段着として上に羽織っていた短い表着(うわぎ)です。
襟は半纏(はんてん)と同じ形をしていて袖は広袖に成っています。
広袖というのは袖口が袖幅いっぱいに空いている形です。
これが後の羽織に発展していき、武家の通常公服として着用されるように成ります。
江戸時代の中期以降になりますと富裕な町人たちも羽織を着装するようになります。
そして武家の羽織袴の通常公服を礼装として町人は用いるように用途が広がっていきます。
江戸時代の中期以降は男子は町人も羽織を用いるようになりますが、奢侈に走るという事で女性は小袖の上に羽織を着装することは禁止されていました。
女性が羽織を初めて着用したのは深川の芸者衆です。
幕府は市中の遊女の数を1000人と制限していました。
そこで深川の芸者は幇間(ほうかん)、即ち○○奴という男名を付けて御座敷にでました。
芸者に○○奴という名がつけられたのはその名残です。
幇間(男芸者)となって男性と同じように羽織を着てお座敷にでました。それが女性が羽織を着装したはじめだと言われています。一般女性に羽織が流布するのは明治になってからです。
女性の間にも羽織着装が流布しますのと男性と同じように紋付きの羽織も表れます。
しかし女性の羽織姿はあくまでも略装であって、正式の場は帯付きというのが昔も今も変わりません。

2011年10月22日土曜日

菊は菊水延寿の故実によって聖なるものとして日本では扱われています。
菊水は中国の河南省内郷県にある白河の支流にある地名です。古名は鞠水です。
この川の崖にある菊の露がこの川に滴り落ちていて、その水は甘くて飲めば長命になるという故実からきています。
菊重ねは重ね色目の事で=表は白で裏は紫
紋章=明治2年8月に16弁八重菊を皇室の御紋章として定める。同時に皇族の紋章についても14弁単菊
をもって定め皇族以外の使用を禁止しました。
菊花は神仙にいう長寿の瑞華の君子とされているところから、蘭、梅、竹と合わせて四君子の一つに数えられています。
菊は「菊花之隠逸花」=(隠逸は菊の異称)であり「日精」と呼ばれ、太陽の精気を含んだ花とされ
百花の王と言われていました。
菊花は人間の身を軽くし精気を増し、さらに健康にする効能があるとされています。
そんなところから菊に浸された水は生命の水、不老長寿の水とされています。
そのところから楠木氏の有名な菊水の紋章が生まれています。
図にあるように衣服の紋章として用いられるようになったのは鎌倉時代以降で、後鳥羽天皇をはじめとして仙洞(院)の御紋として用いられていました。

2011年10月21日金曜日

中国では瑞鳥である鳳凰が桐の樹に宿り竹の実を食べて成長するという故実があり
慶寿の植物とされていました。
竹も松と同じく長寿で秋にも葉が落ちず色が変わらない。
しかも一直線に延び弾力性も強く折れにくい。これを人生に比して節操の堅いことを
賛美しました。
竹は霊的なものとして扱われ神霊の依代(よりしろ)として、また招代(おぎしろ)
として現在でも神事には必要欠くことのできない植物で、地鎮祭や七夕時にも主役として
使用されています。
また節操の高いものの代表として四君子の一つに数えられ、こうした考えが松と梅と
結びついて三寒三友(松竹梅)の観念を生み出して一般に広く知られています。

2011年10月20日木曜日

浴衣その二

浴衣は当初は入浴する時に用いられていました。
用いられていた着物は湯帷子と言われていまして,それが転訛して浴衣になりました。
江戸時代の後期になりますと木綿が普及して庶民の下級階層の人たちも浴衣を着るようになります。
守貞漫稿(もりさだまんこう=喜多川守貞が天保年間に書いた風俗書)には「卑賤な人々は浴衣を昼夜問わず外着として使っている」とあります。
浴衣は入浴後の涼をとる部屋着として用いていて、けっして外には着て出なかったのが貧しい階層の人たちは単代わりに着用していると書いているのです。
社会通念上は恥ずかしい行為であるからそのようにわざわざ取り上げたのですが、それが次第に一般の人たちに伝播していき、ついには夏の夕方から夜にかけて着る散歩着として着用されるように用途範囲が広がります。
ある大学の卒業式に数人の学生が浴衣を着て出席して、会場に入ることを大学側から拒否されたというエピソードがありました。
卒業式という厳粛な式典に典型的な部屋着で出席するというのは確かに常識外れですね。
夏物の着物にも普段着から礼盛装までありますので、T・P・Oは守らなければいけませんね。
そんなところで変に自己主張しても自分の値打ちを下げるだけなのに、おかしい行為をする青年が後を絶ちませんんね。
浴衣は現在でも一般常識としては夕方近くから夜にかけて着る散歩着としてT・P・Oでは位置づけされていますが、最近は大阪に行きますと朝から浴衣を着て遊んでいる若い人たちが増えています。
風俗というのは大勢の人たちが認知すればそれが普通になるという変遷をしてきていますので、浴衣はそのうちに夏の普段着として定着するかもしれませんね。

2011年10月19日水曜日

浴衣


浴衣の語源は湯帷子(ゆかたびら)です。
湯帷子が転訛して浴衣になりました。
帷子というのは単仕立てのきものという意味です。
木綿が一般の人たちに普及するのは江戸時代の中期以降です。
それまでの衣料の材質は藤、楮等の樹木の繊維もありましたが、麻と絹が主です。
例えば上級者が着用する直垂(したたれ)と下級者が着る素襖(すおう)は形の上では同じですが、材質は直垂は絹で、素襖は麻というように上下付けがなされて、麻は下級者や上級者の普段着用として用いられていました。
布というのは麻や後の木綿のことを言い、絹は裂地と言われていました。
昔の風呂は蒸し風呂です。密閉した部屋に下から釜を焚いて蒸気を導いて部屋を温めて汗をかき、垢が浮き上がったところでこすり落として、かけ湯をして上がるという入浴方法です。
入浴するときは汗がよく出るように麻の湯帷子という着物を着て入浴しました。
その湯帷子が浴衣のルーツです。
浴衣は本来は入浴するときに着用していたのですが、江戸時代になりますと五右衛門風呂や鉄砲風呂という風呂が普及し、浴衣は入浴後の涼をとるための部屋着として着用されるというように、使用範囲が拡大していきます。
そして木綿が普及してからは、木綿の方が安価で肌触りもよいので、浴衣は麻から木綿にと移行していきます。そしてそれまでに使用されていた麻は上布や帷子と呼ばれて、夏のチョイチョイ着や外出義として用いられ、木綿よりも高級な衣料として残っていきます。

2011年10月17日月曜日

羽織


羽織は胴服から進化したものです。羽織が普及して文久三年(1862年)には羽織袴姿が平服として定められます。
平服とは外出着のことで、個人の儀礼の時は通常は平服で儀礼の場に赴いてもよいと言うことです。
町人も力のある者は礼装として紋付の羽織袴を着用し、平服には着流しに羽織という形式が普及するのですが、女子は奢侈禁止令によって小袖の上に着ることを禁止されていました。
女性が羽織を初めて用いたのは宝暦年間(1751~1763年)に深川の芸者であったと言われています。
写真は清長の(当世遊里美人合)で右端の女性が羽織をきています。
頭を見ますと帯付きの二人と異なって少し男ぽい髪型になっています。
江戸時代には風紀上遊里で幕府が認めた芸者の数は1000人です。それ以上は許されませんでしたので芸妓ではなく、男性と同じく羽織を着て幇間(ほうかん)として、名前も「なになに奴」という男名で座敷に出たのが始まりです。芸者に奴という名が付いているのはそういうことです。
一般女性が羽織を着用するようになったのは文化、文政以降といわれています。
当初は紋付の羽織が通常でしたが、柄物のおしゃれ用も着用されるようになります。
女性の羽織姿はあくまでも略装であって、正式着装は帯付です。