2013年9月30日月曜日

楽しみの検証-21

優れた学問や技芸を有して活躍している人が、大きくそして永続性のある楽しみが得られます。それは人は自己顕示欲の強い動物ですから、自分の存在価値を他者が好評価してくれることを肌身で感じ取れるからです。
 仕事が楽しくない人は、ストレスが溜まりやすいので、それだけ癒しが余分に必要になります。飲食や娯楽で楽しみを求めれば使えるお金に限りがあるから、結果的にはストレスが余計に溜まってしまいます。
 人生の大半は仕事に費やしているのが現実ですから、仕事が楽しくないという人生は大変つらいと思います。
 でも考え方次第ではどんな仕事に就いていても、心の持ち方で楽しみに変えることは出来ると述べました。心の持ち方で楽しみに変えれることは確かです。ですがこれは優れてた学問や技芸を有すること以上に難しいかもしれません。
 でも人生を大きく充実させたいと希望すれば、どちらかの道を選択しなければいけません。
 現在では幼稚園3年、小学校6年、中学年3年、高校3年、大学4年と合計で19年も学びの道を歩みます。長い道程ですから、こういう人生論を確りと認識して頑張って取り組めば、何かを掴み取れることの確率は高いと思います。
それには親子で、人生に付いて真面目に真剣に議論して親は子供に教える。昔は家庭内でもそういう風潮がありましたので、それを取り戻す必要を感じています。

2013年9月29日日曜日

楽しみの検証-20

人は法の下に平等ですが、各々が宿命を背負って生まれて来ます。
生まれた時からお金持ちで、環境に恵まれ、将来は社長を約束されている人がいます。
その反面、学校にも行けずに義務教育を終えれば働かなければいけない人も沢山います。環境面においては決して平等ではありません。スタートラインは同じではありません。各々がハンディキャップを背負ってスタートします。
背負ったハンディキャップの重さで、仕事が楽しいと言える職業に就けない人もたくさんいます。そうい人は充実した人生を歩めないのか。
そんなことはありません。幸不幸は心の問題です。今自分が生きていけていることに対して感謝する心、貧しくても他者に対して優しく思いやりのある心を持っていれば、人生は楽しくなります。
心のあり方次第ではお金持ちよりも充実して生きていけることは可能です。それは真理ですが、「衣食足りて礼節を知る」の諺の如く、経済的にゆとりのある者の方が、心にもゆとりがあるというのが現実です。
それではいけないのです。現況は容易には変わりません。でも気持ちはその気になれば直ぐにでも変われます。仕事が楽しくないという人ほど、自分の心を変える努力が必要です。考え方次第で、人生は楽しく穏やかに暮らせることを自覚することが大切です。

2013年9月28日土曜日

楽しみの検証-19

田辺聖子さんの小説に「中年ちゃらんぽらん」というのがあります。
準主人公の女性事務員が、男子社会の中で出世など出来ないことは分っているけれども、自分に与えられた仕事はテキパキとこなします。
朝は少し早い目に出社して、事務所の掃除をし、皆が出社してくれば快活に挨拶をしてお茶をだします。
いくら頑張っても自分の地位はどうにもならないことは分っていても、前向きに明るく仕事をこなして行きます。気持ちのゆとりがそうさせるのです。何故そんなに心のゆとりが出来るのでしょう。
 人は自分は自分はと自負心を強く持っていま。そういう気持ちが強いと、どうしても不平不満につながります。ところが世の中には素晴らしい人は沢山います。
自分なんかよりも素晴らしい人が掃いて捨てるほどいる。それが事実なのに自分のような者を雇ってくれている。本当に幸せで嬉しいことだと感謝出来る心。
感謝出来る気持ちが持てれば、どんな仕事に従事していても、楽しく仕事をすることが出来ます。楽しく仕事が出来ればストレスも溜まりません。従って疲れも少なくなります。疲れは体を動かすよりも精神的な要因の方がおおきいのです。
 疲れが出なければ、遊ぶ事の時間を割いて何かに打ち込むことが出来ます。一所懸命に頑張れば何かを掴むことが出来ます。
小説の中の女性は心にゆとりがありますので、自分の好きなお稽古事を主催して活躍し楽しんでいます。
これには心の錬磨が必要ですが、考え方一つで嫌なものも好きになれることは事実です。

2013年9月27日金曜日

楽しみの検証-18

子供に対する親の愛は不滅ですが、だからと言って永続する喜楽を子供に求めるのは間違っています。
 男女愛から得る喜楽は大きなものですが、続かないのです。
一時的に大きな喜楽が得られても生涯を通しての喜楽にはならない。他力に頼っても永続する喜楽は得られないことは明白です。
 人は自己顕示欲が強いので、自分の存在が好評価されることが一番大きな喜楽が得られます。
そのためには仕事が楽しくなければいけないでしょう。
でも現実的には仕事が楽しい生き甲斐だという人の方が少数ではないでしょうか。
 眠ること、遊ぶ事、仕事する事のサイクルの中で仕事するが、人生の中で一番長くて重要です。
その仕事を誰もが楽しく出来る方法は一つあります。
 人は自分は自分はと自負心を強く持っています。だから自分の置かれている立場が納得できなければ、それが不平不満になりストレスへと発展します。
当然仕事が面白くない状態になります。仕事が面白くないけれども働かなければ生活ができません。生業のために仕方なく仕事をする。そういう状態が長年続くのは本当に辛いと思います。その苦しみから抜ける方策は一つだけあります。

2013年9月26日木曜日

楽しみの検証-17

男女愛によって永続性の喜楽を得ることは難しい。それは様々な事例で証明されています。
 どんなに好きで結婚をしても、その内に一緒にいても気持ちが高揚することはなくなります。そういう時期になると普通は子供を授かっています。
子供は、目に入れても痛くないと言われているように可愛いです。
あまりの可愛さに子供の育成が生き甲斐という女性も少なくありません。
 でも親子は一世、夫婦は二世という宿縁の諺があるように、子供には子供の人生があって。どんな動物も親離れをして自立していくのが定めです。
親が子供に抱く愛は永遠不滅(例外も稀にあります)ですが、子供の育成が自分の生き甲斐にして、自己の人生の充実にすることは出来ません。
昔から子供は社会の預かりものと言われています。そういう子供との関係の方が親子両方にプラスに働くとおもいます。
今の親は子供に甘すぎますね。

2013年9月25日水曜日

楽しみの検証-16

男女愛から、永続性のある喜楽を求めても得ることは難しい。
これは、人間には「忘れる」「慣れる」「飽きる」という本能を備えているからです。
 どんな好物な食べ物でも毎日では飽きて、それを別に嫌いになるということではないが、他の物を欲します。
 五十路を過ぎて連れ合いといることが一番楽しいという人を、未だ嘗て見たことがないこともそれを証明しています。 
男女愛に永続する喜楽を求めても、実現することの難しさは、ある程度の年になれば分ります。
 今のお親子事情は把握できていませんが、以前は娘の結婚に関しては、経済的に将来性のある人を選びなさいと親が娘にアドバイスをしまいた。
自分も若い時は、お金よりも愛の方に走った経験を持っていたはずなのに、歳を取ると愛だけでは暮らせないことを勉強できているからです。
 若い人にこういうことを言うと「そんなん信じられℋん」「私は絶対にそんなことにはならない」と言い切ります。
若いですね。若い時はそれでいいと思います。若い時はそういう情熱が大切です。でも必ず躓くことがあるでしょう。そういう時には、自己の人生の充実を他力に頼っても、何の解決にもならないことだけは、心の隅に置いておくことも大切です。

2013年9月24日火曜日

楽しみの検証-15

若い時は男女愛に大きく期待して、そこに喜楽を求めます。
恋心は偉大で、一緒にいるだけで心がときめいて楽しいのです。それが死ぬまで続けば、お金なんて食べていけるだけあれば十分です。愛によって生涯幸せに暮らせます。愛はそれだけ偉大なのですが続かないのです。
 私は68歳で再婚しましたのでまだ3年と少しです。喧嘩したことはありませんが、それぞれの人格を備えた男と女の違い、育った環境の違い等々様々に異なっている二人です。大きな喧嘩はありませんが「こいつ何を考えているのか」と気持ちのすれ違いを感じたことはあります。有りますが、それは自分だけでなく相手も同じように感じていると思います。お互い様なのです。異なっていることが当たり前ですから、自分の意見を押し通すようなことはしません。
 ところが若い時は、特に男はです。自分が働いて家庭を支えていると自負していますので、自分の意見に従わせようとします。あるいは押し通そうとします。そうしますと、生活費を男に頼っていますので、一歩引いて我慢をするのは大抵女性です。男は我が儘で、女性は我慢して耐えることが多いので、いざ鎌倉となれば女性の方が意思は強いのです。男よりも数段強いのはそこに起因があると思います。
 どんなに好きで一緒になっても、必ずそういうバトルがあるから、次第に新鮮味はなくなり、一緒にいてもときめきを感じなくなっていきます。
五十路も過ぎて、連れ合いといることが生き甲斐だという人を、未だかつて見たことはありません。

2013年9月23日月曜日

楽しみの検証-14

永続する楽しみは遊びのサイクルには無い。遊びはリフレッシュさせるため。癒しのためにあるもので、仕事のサイクルの中にしかありません。
 でも誰もが仕事が楽しいと感じてやっているわけではありません。生業の為に仕方なく頑張っている人も沢山います
我慢して頑張っているから、その分余計に癒しが必要ですから、簡単に楽しめれる遊びの方に走ってしまいます。でもそちらの方が地獄なのです。
 遊びにはお金が必要です。仕事が楽しくないという人は、楽しいと感じて仕事をしている人よりも稼ぎが少ないのが通常です。
 遊びに回せるお金は少額であるというのも一般的ですから、遊びに頼れば我慢辛抱を強いられるのがせきのやまです。
刹那的に消え去る楽しみは、楽しんでいる時間よりも我慢して、面白くない日々を過ごす時間の方が長いのです。そういう心境で充実した人生を送れるはずがありません。ストレスがたまるばかりです。
 それを補ってくれるのは男女愛、家族愛です。愛は偉大ですから愛の絆で強く結ばれていれば、楽しい日々は続くのですが、その愛が実に不安定であるというのも一般的です。
 

2013年9月21日土曜日

楽しみの検証-12

人が生きて行くための原理原則というものがあると思います。
人は社会という人の群れの中で共生しています。言葉を換えれば人は直接、間接的に支え合って生きています。支え合っているといっても、どんなに力のある人でも自分一人の力は微々たるものですから、支えられて生きているのが現実です。
 人の一生は端的に言えば「眠る」「遊ぶ」「仕事をする」ことのサイクルで成り立っています。
 人は支えられて生きていれるのですから、三つのサイクルの中で、誰もが責任と使命を担っている仕事。それが生きて行くことのメインなのです。
 遊ぶ事はリクリエーションとして存在しています。
気持ちを癒し明日からの仕事に弾みをつけるためにあるのです。
 私は若い時に、そういう理屈が分らずよく遊びました。むさぶるように遊びましたが心の充実はありませんでした。後に残るのは虚しさばかりでした。
そういう遊びの虚しさを実感できていたから、大した成果は残せていませんが、その後頑張れたのだと思います。
遊びのサイクルの中に「癒し」はあっても「心の充実」はありません。
若い人たちにはそれを少しでも早く知ってほしいとおもいます。

2013年9月20日金曜日

楽しみの検証-11

現状の生活に十分満足されている人はあまりお稽古に来ません。
お稽古に来るということは、現状よりも生活に膨らみを持たせたいと願って
いるから来るのです。
 生活に膨らみを持たせるということは、これまでよりも心の潤いが欲しい
ということです。何故ならばすべての物事は心の潤いの為に存在しているか
らです。
 こういう堅苦し話をしますと、着付のお稽古と心の問題と何の関係がある
のかと、怪訝に思い反発する人も少なくありません。
 ところが中にはそういう理屈を聞いて、前向きに取り組む人がいます。
当然そういう人は他の人よりも上達が早いのです。上達が早いと自分が向上
していることに喜びを覚えます。そうしますと益々上達します。
 自分が努力をして身に付けたものは、他者の為に役立つ活動をすれば、喜
楽はますます増幅します。自分が向上していく喜びを実感した人は、当初は
そこまでやるなんてことは考えてなかったものが更に活動を前に進めます。
結果として自分で学院を興して、男性並に事業主として活動をしている人は
数人います。
彼女たちは本当に輝いています。その輝きは永続する楽しみを得た結果です
から、色褪せることなく輝き続けているのです。

2013年9月19日木曜日

楽しみの検証-10

うどん屋でも美容院でもケーキ屋でも何でもいいのです。
あそこは上手や、あそこは美味しいと評判になり繁盛します。
繁盛するということは、自分の頑張りや努力が多くの人に承認されている、即ち自分の存在価値が認められているということです。
自分の存在が認められることは一番の喜楽ですから、もっともっとお客さんに喜んで貰えるように努力をします。そういう心境になれますと働くことは楽しくて仕方がないので、遊びは息抜きになればよいのです。
 お金を自由に使える人が、あちらこちらに食べ歩きにでかけたり、旅行に行ったりして楽しんでいる人がいます。そういう遊びの楽しみは、楽しくないとはいいません。これも楽しいことはたしかです。でも自分の存在価値を承認されることの楽しみと比較すると、比較にならないくらいに小さいものです。刹那的な楽しみばかりを求めている人は、永続性のある楽しみの大きさを知らないからです。
 

2013年9月18日水曜日

楽しみの検証-9

何が、どうなることが一番楽しい事なのか。
例えば青年海外協力隊の一員としてボランティア活動をしている人達です。
自分の所有する知識、技能、技術を活かして、後進国に出向いて指導や手助けをします。
ギャラはボランティア活動ですから微々たるものですが、現地の人達から感謝されます。感謝されるということは、自分の存在価値を認めてくれているのです。自分が活動することが現地の人たちの役に立っている。そして自分の存在が認められている。何の贅沢も遊びもしなくても、心が潤い快楽になれるのです。
 何の為に旅行に行き、またお洒落をしたりするのか。それは心の潤いのためです。活動すること、仕事をすることが旅行したり、お洒落を楽しんだりするよりも、大きな心の潤いが得られれば、遊びは適当に息抜きするためのものであればいいのです。
人は自己顕示欲が強いのです。自分の存在が認められたいと念じています。それが成されることが一番の喜楽になるということを確りと認識することが大切です。

2013年9月17日火曜日

楽しみの検証-8

人間は欲の強い動物ですから、様々な手段から楽しみを得たいと模索しています。それが普通の生き方です。誰もが模索をするのですから、同じなら楽しみには刹那的に消え去るものと、永続するものと二種あることを知っていた方が得です。
 だけど楽しみには二種あるということが分らないという人がいます。
仕事は楽しい生き甲斐だと感じて活躍している人は分っておられますが、そうでない人は理解できないかもしれません。現実にそういう人が沢山おられました。だからお稽古に来ても簡単に辞めて行かれる人がおおいのです。
 それをくい止めるために、お稽古事などの教養を身に付けて活躍すれば、永続性のある楽しみを掴み取れることができる。掴み取らなければ生活は変わらない。変えることのできるのは自分しかいない。だから「着付ぐらい」と安易に考えないで頑張れと語りかけました。なぜならば出来なくても生活に何の支障もないのに、お稽古に来るということは、生活の変化を求めているからです。
 鬱々と生活に張り合いのないことを悩んでいても一歩も前進しません。
そこから抜け出すには確かな何かを身に付ける以外にないのです。

2013年9月16日月曜日

楽しみの検証-7

着付のお稽古も、「お稽古も」と言いましたが、それはどんなものでも同じであるということです。
上手になるには、それなりの困難が伴います。困難を乗り越えるには努力と我慢が必要です。
 我慢や努力が必要となりますと、「私は別にプロになるつもりがない」、「別に出来なくても生活に支障がないから」等と自己弁護して、簡単に辞めて行かれます。
 それは楽しみには刹那的なものと、永続するものがある。お稽古事などの教養に関するものに取り組み、確かな教養を身に付ければ永続する楽しみに繋がる。人生に膨らみを持たせるには、刹那的な楽しみばかりを求めるのではなく、永続する楽しみを持つことが大切であるという、人生の理解度が足りないから簡単に辞めて行くのです。
 人生は端的に言えば「寝ること」「遊ぶ事」「仕事すること」でなりたっています。その三つのサイクルの中の「遊ぶ事」は、非常に楽しいです。癒されます。しかし「遊ぶ事」の中にある楽しみは刹那的で永続しません。
永続する楽しみは「仕事をする」というサイクルの中に存在します。
それは経験をして、実践の中で覚醒していくことですから、知らない人が
多いのも無理はありません。

2013年9月15日日曜日

楽しみの検証-6

仕事が楽しい生き甲斐だと言える人は本当に幸せな人です
でも誰もがそういう人生を送れるわけではありません。現実には送れていない人も多いのですが、若い時から人生に付いての理屈が分っていれば、誰もがそういう人生を送れることも現実です。
 今テレビで「半沢直樹」のドラマが大評判になっています。少年の頃に中小企業の社長である父親が借金で廻らなくなって自殺をします。そういう劣悪な条件の中で主人公は勉学に勤しんで大学を出て有名銀行の課長までなっています。皆が遊びたい時期に必死で勉強に勤しんだ結果です。そういう背景があるから、あのドラマは成り立っているのです。
 私は芸能界の衣裳担当の裏方で仕事をしていましたのでタレント、役者のことはよく知っています。以前の役者は皆さん大変苦労して下積み生活を送ってこられています。それでも我慢して勉強をしてきた人だけが、今頑張っています。アスリートでも、私たちは華やかな部分だけしか見ていませんが想像を絶する厳しいトレーニングに耐えて活躍しています。
大きな永続性のある楽しみを手に入れるには、何年も我慢して耐えて耐えて手に入れているわけです。
そういうことですから、苦労に耐えて我慢して頑張り通せば、仕事が楽しい生き甲斐だという人生を、誰もが送れる可能性があるのです。
世の中はよくできたもので、若くに気ままに楽をして過ごしていれば、歳を取ってから苦労をする。若い時に苦しさに耐えて何かを掴んだ人は、歳を取ってから充実した人生を過ごせます。

2013年9月14日土曜日

楽しみの検証-5

人生模様は万象です。しかし最大限に要約すると、「寝ること」「仕事すること」「寛ぐこと(遊ぶ事)」の三つのサイクルに絞られます。
 人は社会という人の群れの中で、多くの人たちによって支えられて生きています。
それが事実ですから、全ての健常者は仕事をしなければいけません。その仕事が各々の人生を大きく左右します。
 眠ることは別にして、遊ぶ事と仕事をすることの二つを考えてみます。
私は仕事が楽しい、生き甲斐だという人は、人生を楽しんでいる人だと思っています。遊びのサイクルと仕事のサイクルがプラスされるのですから、当然楽しみは増幅されるわけです。
 仕事を楽しんでやっている人のところには、通常はお金も沢山流れますので遊びも贅沢に遊べます。
 仕事が楽しいという人生は理想ですが、誰れもが仕事が楽しいと言える仕事に就けれるわけではありません。そのことは分かっていますが、同じ仕事をしなければいけないのですから、こういう理屈を若い時から思念し、進路に弾みをつけてほしいのです。
 昨日テレビで幼い時の躾が生涯収入に影響すると報じていました。それは幼い時から論理的に思考できるように躾ておけば経済的に優位な仕事に就けるということです。

2013年9月13日金曜日

楽しみの検証-4

結婚をすれば一人よりも二人の方が楽しく生活していけるだろう。
勉強を一生懸命にすれば、自分が志している道に進める。進めれば仕事が楽しんで出来るだろう。
身近な事柄に付いて哲学的に思考すれば、娯楽、趣味だけでなくすべてのものは楽しみ=心の潤いに繋がっていることが分かります。
生きていくために心の潤いが最も大切なのです。その心の潤いは喜楽によって湧出されるのです。
そのことが分れば、喜楽に対する理解が大切であることが分ります。
 喜楽につながるものは無数にあります。ありますが喜楽には刹那的に消え去ってしまうものと、心掛け次第では永続するものとがあることを知っておくことが重要です。
 例えば、お洒落の楽しみ。旅行する楽しみ。お金さえ出せば簡単に得られます。お金を出せば簡単に得られる楽しみは他にも沢山あります。沢山ありますがそういう楽しみは刹那的に消え去ってしまいます。
 お金を湯水の如くに使える人がいるとすれば、そういう人は娯楽は楽しみにはならないでしょう。使えるお金と時間に制限があるから娯楽は楽しいのです。
 お金を使って得れる楽しみを求めれば、使えるお金に限りがあるから、前の楽しんだ気持ちの余韻が消滅すれば、次の楽しみまでは我慢辛抱の日々が待っていて、面白くない生活を送らなければいけないのが一般的です。

2013年9月12日木曜日

楽しみの検証-3

暑さ寒さから身を守るとか、社会人としてのモラルで衣服を身に付けるなどの、実用性から衣服を捉えれば、誰もがもう一生買わなくても足りるほど所持しています。
それでも素敵な衣服を見れば欲しくなって買ってしまいます。新しい服を買ってお洒落をすれば気分が高揚して楽しめるからです。
お洒落の根本目的は楽しみであり、楽しみによって得れる心の潤いです。
 様々な娯楽趣味がありますが、何のために存在するのかを哲学的に考えれば全ては楽しみ、そして楽しみから得られる心の潤いのためです。
 何の為に結婚をするのか。何のために勉強をするのか。何のために仕事をするのか。これもすべて心の潤いを得るためです。
生きていくうえで一番大切なものは心の潤いですから、あらゆる事柄は哲学的に考えればそこに繋がっています。
 心の潤いは喜楽によって湧出します。そして幸せ感や充実感を覚えますので、楽しみに付いての検証が重要です。

2013年9月11日水曜日

楽しみの検証-2

 お稽古に来られた人に、何のためにお稽古に来られたのですかと語りかけるようにしていました。
そうすると「着物を持っているけれども着れないから」と殆どの人が答えられます。
それは当面の目的であって、哲学的思考から乖離したものですから次に何故着れるようになりたいのですかと語りかけます。そうしますと答えに詰まってしまいます。恥をかかせてはいけませんので、「着れるようになれば時にはきもののお洒落も出来る」即ちその分楽しみが増幅すると思うから、着れるように成りたいのではないでしょうかと話します。
 中には結婚式や葬式の儀礼用のきものを自分で着れるようなりたいからと言う人もいます。そういう人には、現在は日本女性といえども着物が着れなくての恥ずかしいという時代ではありません。儀礼用の服を自分で着れるようになるには時間がかかりますので、そういう場合はプロに着せてもらう方が合理的です。こういう時代にわざわざお稽古するのであれば、自分できものを着て積極的にきもののお洒落を楽しんで頂きたいのです。
 着たいということの根本目的は楽しみの増幅です。何故皆は楽しみを求めるのか。楽しめば心の潤いに繋がるからです。人が生きていくうえで一番大切なのは心の潤い豊かさで、着たいという気持ちはそこに繋がっているのです

2013年9月10日火曜日

楽しみの検証-1

数学博士の広中平祐先生は以前に「身の回りの事柄に付いて哲学的に理解すれば視野が開ける」とおっしゃっておられました。
私もきもの学院を開校して生徒の皆さに、身の回りの身近な事柄に付いて語りかけていた時期でしたから、大変に共感と感動を覚えたことを思い出します。
 例えば着付のお稽古ですが、お稽古に来られる多くの人は上手に着れるようになりたいと希望されています。着付に対しては「着付ぐらい」と侮りの気持ちを持っている方は多くいます。ところが着付も上手の域に達するには難しいのです。その難しさを乗り越えるには、苦労が伴います。
侮りを持っているということは、着付ぐらい「その気になれば簡単に着れるようになるわぁー」と思っているということになります。ところが実際にお稽古を始めますと意外と難しいので、上手の域に達することは難しいことが初めて理解出来るようになります。
難しいことが実感出来れば、これまでの考えを改めなければいけません。。
ところが着付が出来なくても生活に何の支障もないし、なんとか「着れるようになったからこれでいいわ」と考えて辞めて行きます。
 技能は頭で覚えるものではなく「体で覚える」ものです。上手に着れるまでに達していれば体に染みついていますので簡単にわすれないのですが、そこまでに達していなければ、直ぐに忘れてしまいます。お稽古に行ったけれどもやっぱり着れないという人が多いのはそういうことなのです。
 それは何のために着付が出来るようになりたいのかという哲学的検証が出来ていないことが一因です。

2013年9月9日月曜日

誰の為に生きる

プロのアスリートを目指している人がいます。
プロテストを毎年受けるのですが、残念ながらテストに合格しません。
 今回のモスクワの世界陸上に出場したマラソンの野口さんは、潰れてしまっては大会に出れませんが、潰れる寸前までトレーニングしなければ競争には勝てないとおっしゃっていました。
そういう人たちのトレーニングと比較すると、その知人は今よりも何十倍もトレーニングしなければいけない。客観的にみれば我慢、辛抱が足りないとおもえるのですが、本人は俺は十分に努力している、これ以上どうしろというのだと言っているそうです。その上問題となるのは、俺がこんなに頑張っているのに、お前達はどれだけ俺の為にしてくれたのかと家族の者に言うそうです。
 この例はフイクションですが、現実にもっとやれるゆとりがあるのに、自分では十分にやっている、これ以上どうすればいいのだと叫ぶ人は多くいます。自分では十分にやっていると思っているのなら、何度受けても合格しなければ、結論は向いていないのです。簡単な理屈です。
 人は誰のためでもなく自分自身の人生の充実の為に生きています。自身のロマンの為に選択した路は、誰のためでもなく自身のためですから頑張り通さなければいけないのです。それでもだめなら自分は向いていない。その道では才能はないのです。そういう結論付けをする前に、本当に血涙の出るほど自分の為に頑張ったのか。それを客観的に見れる自分を構築しなければ、そんな人は何に取り組んでも一流にはなれないのです。
人生は自分のためのものであるのに、頑張れないことを人のせいにするような人は、何に取り組んでも大成しません。

2013年9月8日日曜日

東京五輪決定おめでとう

今朝は東京五輪決定の報道一色です。
これでアベノミクスにも拍車がかかり本格的に景気回復が約束されたように思います。
東京五輪決定によって東京だけがインフラ整備されるのではなく、老朽化している日本全土が整備されることを願っています。
 決定後のインタビューで猪瀬知事は、日本人、日本国には力があります。これまで自信喪失気味だったものを、これによって自信につなげて頂きたいと言っていたのが印象的でした。
 阿部総理は福島の後処理に付いて世界公約をしたのも同然ですから、福島原発事故の後処理にも拍車がかかると思います。
 国民の一人として本当に嬉しいです。何故か胸がざわめいています。

2013年9月7日土曜日

誰の為に、何を目的として生きる

35年間きもの学院を経営してきて、多くの人たちと知り合いになりました。
お稽古の取り組みの成果は、当初は器用不器用などによって多少の差異は生じますが、誰もが目標と考えている上手になるという観点からすれば、器用不器用などよりも、最終的にはその人の人間性が成果として現れます。
 何に取り組んでも、遊びの一環として、楽しめればよい、気晴らしになればよいという考えで取り組む人がいます。そういう人は真の楽しみとはどういうものか、如何に大きく重要なものかが理解できていないのです。
目先の刹那的な気晴らしが楽しみの全てだと考えている人なのです。
 学生時代を思い出して頂ければ納得すると思います。がり勉タイプではないけれども成績がずば抜けて優れている人がいました。そういう人は自分自身のことだから、自分の為に真面目に自主的に勉強に取り組んでいた成果なのです。
 それと同じで、少しでも早く先生のようになりたいと、真面目に前向きにお稽古に取り組む人も、数は少ないですがいます。
 上手の見本は先生です。先生が技能面の山の頂とすれば、その頂きまで登るにはどんなものに取り組んでも努力と苦労が伴います。その苦難に耐えれるか否かは、その人の人間性によって決まるのです。

2013年9月6日金曜日

トウモロコシ

トウモロコシの収穫の時期です。
レポーターが畑にお邪魔して、トウモロコシをもいで貰って、そのまま生で食べるシーンがよく見られます。その時のレポーターの感想は一様に甘いとコメントしています。
それをテレビで見ていた妻が、トウモロコシを生で頂いたことがないので楽天市場で北海道の富良野で取れるトウモロコシを注文しました。
昨日の送られてきましたので早速生で頂きました。
レポーターがコメントする通りに本当に甘いのです。はじめての体験ですのでその甘さに驚きです。
美味しいです。こういうものはスーパーや市場では売っていません。
少々お値段は高いですが。何でも値段は正直ですね。それだけの値打ちはあります。来年も買います。

2013年9月5日木曜日

映画「終戦のエンペラー」を見て

降雨続きですから、昨日は気晴らしに映画を見に行ってきました。
日本が降伏して天皇を戦犯として裁くか否かを題材にした映画でした。
 結末は皆さんもよくご存知のことですが、陸軍の将校と近衛兵参謀の一部が徹底抗戦を叫んで、ポツダム宣言を受諾する「終戦の詔書」の朗読のレコードを奪おうとクーデターが起こったという事実は恥ずかしながら初めて知りました。ニ・ニ六事件は歴史で習いましたが、これは習っていませんので知らない方もいらっしゃるのではと思います。
 この事実からも、軍部の独断の好戦主義と侵略構想が如何に強かったかが窺えます。
 敗戦をしましたが、アメリカのお蔭で日本は民主主義国家として見事に再生しここまで繁栄することができました。
でも今日の繁栄は、多くの命との引き換えになされたものですから、韓国や中国が何を言ってこようと、日本人である限りは、英霊に対する感謝の気持ちは忘れてはいけないと思っています。

2013年9月4日水曜日

福島原発汚染水漏れ

福島の汚染水タンクを皆さんはご覧になられたと思います。
汚染水は今後も際限なく生じ、同時にタンクの数が益々増えて行きます。
汚染水を完全浄化させて海に流すことが出来なければ、今後どうなるのでしょう。この状態を終息させる技術と方策があるのでしょうか。
その上に高濃度の汚染水漏れが始まっています。
こういう状態は東電だけの問題ではなく日本国全体の大問題です。
国を挙げて終息に導かなければ国際的な信頼が崩れてしまいます。
二年以上も国が放置してきたことに問題があります。
未だに事故後の終息もできないで、原発推進や原発を売り出すなんてことを考えている人もいるようですが、真面な人間の考えることではないと思います。
経済狂いしているとしかおもえません。

2013年9月3日火曜日

ドラマ「半沢直樹」を見て思う

このドラマを見て印象に強く残るところは半沢家の夫婦愛です。
夫が大変困難な状況に追い込まれている。そうなれば生業を夫に委ねている妻達は、先の生活を考えて困難な状況に陥ったことに対して不安を募らせ、上司に従順になることを夫に進言したり、そうなったことを責めたりするのが一般的です。でもドラマでは「何があっても、私はあなたに付いて行きます」「納得の行くようにやってください」という妻の愛が描かれています。
 リストラされたり、事業に失敗して自殺をしたり、家出をしてホームレスになる。またそれを機に離婚するという話も少なくありません。
夫が苦境に陥った時に、妻がどう接するかでその後の夫の人生は決まってしまいます。
 家のローンは残っている、子供の学費や進学のこともある。「これからの生活をどうするのですか」と妻から責められれば、責任を感じている夫は死んでしまいたい。姿を隠してしまいたいと思うのが普通です。
 大きな借金をしていても妻が夫のことを思い遣り「最悪は破産宣告」という方法もあるのですから、私も働くし子供たちにも協力してもらえば、食べていくぐらいはどうにでもなるから「そんなに心配しないで」と、妻の覚悟さえあれば、何があっても家族は仲良くやっていけます。
 でも長年の夫婦生活の中で、夫婦関係が冷め切ってしまっていてはそれは無理ですね。
 既に冷めている夫婦が多いから、家族であっても各々が自分の保身を優先させてしまうから家庭崩壊が起るのですね。そういう夫婦を沢山見てきていますから、半沢家の夫婦関係はすがすがしく思い印象に残ります。

2013年9月2日月曜日

ドラマ「半沢直樹」を見て思うこと

昨日ブログに、半沢直樹を見ていて教えられるところがあります。一つは理不尽な上司には盾を突いて逆らうが、同僚や部下や取引先などの関係者との人間関係は大切にするといところですということを書きました。
 現在でもあまり変わってないと思うのですが、私たちの若いころは、同僚と飲みにいきますと仕事の話がほとんどでした。同僚だから共通する話題は会社の話であることは当然といえば当然のことなのです。
 会社という組織の中では個々の存在なんかいくらでも代わりがあって、自分が辞めても塵や埃が散った程度で、会社は何の影響もありません。
そんなことも分らず、若気の過ちで自分だったらこうするなんて偉そうなことを言って、酒を酌み交わしたことがあります。当然上司批判をしているわけです。そういう光景は現在も変わらないのではないでしょうか。
 半沢直樹のように自分の身を顧みず部下の立場を守る。そういう上司は少ないので酒の肴にされて批判の対象になるのですが、大局的に見ればそれは致し方がないのです。上司は会社のことを考えて部下を働かせる立場で、経営者的考えのない部下は、無理難題を押し付けれられて酷使さえているように思うのが普通だからです。
 上司の立場からすれば、経営の厳しさも理解できていない、口先ばかりで実践力のない一部下の為に、自分の立場を悪化させるような庇いだては出来ないというのが現実ではないでしょうか。
半沢直樹の部下の為に格好良く生きるという姿も、空想の世界の出来事のように思います。
それが出来れば理想ですから、ドラマに惹かれるのでしょう。
 

2013年9月1日日曜日

今日は半沢直樹

強きを挫き弱気を助ける。判官びいきというのは日本人の大好きな話で、小気味よく上司に盾を突いてでも自分の意思を貫き通す。
その痛快さが面白いですね。
男は何処か共感できるところがあるから、人気があるのですね。
あの話は現実にはありえません。組織として不正を隠蔽したり、粉飾決算をしたり、派閥争いがあったりということはあるでしょうが、部下が上司に対してあれだけ盾を突くということは現実にはありえません。
 時には上司の理不尽な言動に、大きな声を挙げて盾を突いて言い負かせてやりたいと思っていても、そんなことをすれば会社にいられなくなるから、我慢をしているというのが現実です。それをドラマではそんな不満を抱いている人に代わって臆することなく上司に立ち向かって言い放つ。そこが見ている者が痛快におもうところではないでしょうか。
半沢直樹見ていて教えられるところがあります。一つは理不尽な上司には盾を突いて逆らうが、同僚や部下や取引先などの関係者との人間関係は大切にするといところです。