絹は中国では紀元前2000年の殷の時代から用いられていました。
中国では絹織物のことを錦(にしき)と言います。
帛(はく)は絹のことで金=帛で、絹はお金と同じぐらいに尊いものでした。貴重なものですから国外への持ち出しは禁止していたのですが、坊主などの手によってシルクロードを経てイタリア、フランスに持ち出されて西欧においても絹織物が発達しました。
日本でも絹の伝来は早くて垂仁天皇(紀元前28年)には任那の国王に赤絹百疋を持参させたと日本書紀にあります。
麻のように茎の繊維から糸にすることを績(う)むと言います。木綿のように綿状のものを糸にするのを紡績といいます。絹は繭玉から直接に糸を繰り出しますので製糸と言います。
・繭玉の周期
(1)卵から
(2)毛蚕(けご)になり、眠期と齢期を四回繰り返しま
す。その期間は25~30日で五齢期に入って繭をつく
ります。
(3)繭が完成するとその中で幼虫期最後の脱皮をして蛹
(さなぎ)になります。
(4)その後12~13日で蛾(が)に変態します。蛾になる
と口から体液を出して繭層の一部を溶かして外に出
てきます
(5)外に出てくると交尾して卵を産み一週間後に短い生
涯を終えます
(3)の蛹が蛾になる前に殺蛹(さつよう)して乾繭(かんけん)といって繭を乾燥させて貯蔵します。
糸を製する時は繭を煮ながら糸を繰り出します。一つの繭から取れる糸の太さは2.5~3.5デニールという細いものです。糸の長さは1200m前後の長さがあります。
白生地などを織る時には大変長い状態で織りあげて、反物(12m),四丈物(16m)、疋物というようにカットして商品にします。
一つの繭から取れる糸の太さは細いので五個、七個、九個の繭から一本の糸を作ります。作られた糸が生糸です。専門的には15中、21中などと言います。中というのは糸の太さのことで、一つの繭の糸の太さは約3デニールですから21中は七個の繭から一本の生糸にしたという意味です。
2011年11月30日水曜日
2011年11月29日火曜日
絹糸
絹糸は
(1)生糸=繭玉から糸を繰り出した糸
(2)玉糸=蛹(さなぎ)が2匹以上入っている繭から糸
を繰り出した糸です。28~250デニールと太さ
がまちまちで、その上に節があるので染物には不向
きですから裏地、帯、紬の着尺地などに使用されま
す
(3)真綿紬糸=繭の中には蛾(が)が穴を空けた繭、傷
や汚れた繭、糸口の見つからない繭、途中でもつれ
て糸繰りの出来ない繭、また繭は最後まで糸くりが
出来なくて必ず10%くらい薄皮繭ができます。
そういうのを特殊加工で真綿にします。真綿にした
ものを紡いで糸にしたものが真綿紬糸です。これは
連続糸ですから軽くて丈夫です。
(4)絹紡糸=「けんぼうし」と読みます。これは屑繭を
木綿のように紡績加工をして糸にしたものです。
素材は絹ですが、絹独特の光沢、こし、また丈夫さ
に欠ける糸です。
生糸以外は副蚕糸(ふくさんし)と言います。
例えばデパートで以前はワゴンに乗った安い反物が目玉商品として販売されていました。
今でも店頭に安い目玉商品を展示している所があります。それらは絹100%の商標が付けられていますが、絹紡糸100%s使用のものや、何十%か絹紡糸が含まれている商品がほとんどです。
きものを着るときに伊達締めという10cm位の幅のある紐条のものを2本使用します。
その伊達締めには各学院オリジナルの物が沢山ありますが、昔からの博多織りの伊達締めが一番理に適って使い良いものです。
その伊達締めは最近京都で織った京筑というものが出回っています。それには絹紡糸が使用されています。見た目は博多織りのものよりも奇麗ですが、使って糊が落ちてしまいますと腰が無くなり紐状に幅が寄ってしまい扱い難くなります。
同じ絹100%でも絹紡糸はこしや強度がなく木綿と変わらないもので、私に言わせれば粗悪品です。
同じ絹100%と表示していましても全く異なりますので、生活の知恵として知っておいて頂きたいとおもいます。
(1)生糸=繭玉から糸を繰り出した糸
(2)玉糸=蛹(さなぎ)が2匹以上入っている繭から糸
を繰り出した糸です。28~250デニールと太さ
がまちまちで、その上に節があるので染物には不向
きですから裏地、帯、紬の着尺地などに使用されま
す
(3)真綿紬糸=繭の中には蛾(が)が穴を空けた繭、傷
や汚れた繭、糸口の見つからない繭、途中でもつれ
て糸繰りの出来ない繭、また繭は最後まで糸くりが
出来なくて必ず10%くらい薄皮繭ができます。
そういうのを特殊加工で真綿にします。真綿にした
ものを紡いで糸にしたものが真綿紬糸です。これは
連続糸ですから軽くて丈夫です。
(4)絹紡糸=「けんぼうし」と読みます。これは屑繭を
木綿のように紡績加工をして糸にしたものです。
素材は絹ですが、絹独特の光沢、こし、また丈夫さ
に欠ける糸です。
生糸以外は副蚕糸(ふくさんし)と言います。
例えばデパートで以前はワゴンに乗った安い反物が目玉商品として販売されていました。
今でも店頭に安い目玉商品を展示している所があります。それらは絹100%の商標が付けられていますが、絹紡糸100%s使用のものや、何十%か絹紡糸が含まれている商品がほとんどです。
きものを着るときに伊達締めという10cm位の幅のある紐条のものを2本使用します。
その伊達締めには各学院オリジナルの物が沢山ありますが、昔からの博多織りの伊達締めが一番理に適って使い良いものです。
その伊達締めは最近京都で織った京筑というものが出回っています。それには絹紡糸が使用されています。見た目は博多織りのものよりも奇麗ですが、使って糊が落ちてしまいますと腰が無くなり紐状に幅が寄ってしまい扱い難くなります。
同じ絹100%でも絹紡糸はこしや強度がなく木綿と変わらないもので、私に言わせれば粗悪品です。
同じ絹100%と表示していましても全く異なりますので、生活の知恵として知っておいて頂きたいとおもいます。
2011年11月28日月曜日
留袖は本来は振りのないお袖の意味
上図左の小袖には振りがあり、右の小袖には振りがありません。
小袖、即ちきもののお袖は右図のように当初は全て振りが無かったのです。
阿国歌舞伎に代表される遊芸の女達は、踊りの演出効果を高めるために子供の脇明きのあるお袖にヒントを得て、振りのある小袖を着るようになります。
いずれの時代においても芸人達が流行を生み出す源となるのは同じで、芸人達の華やかな小袖の形が一般の人達にも広がって行き、若いミスの人達の晴れ着は振袖仕立てにするのが一般化されていきます。しかし、振袖を着るのはミスの間だけで結婚をすれば振りの無い留袖仕立てにするというのが習わしでした。
そういうことから留袖仕立ての着物はミセスの象徴だったのです。
その留袖仕立を代表する着物は紋付の裾模様のきものですから、ミセスを象徴する代表のきものということで、江戸褄をいつの時代からか留袖と称するようになりました。
風俗書などには留袖という呼称の小袖は無く、あくまでもお袖の形を表す言葉としてしか使われていません。
私達の若い頃は喫茶店に入って注文をする時は「温かいコーヒーをくださ」「冷たいコーヒーをください」と言っていました。それが何時からか「ホットコーヒーください」というようになりました。そしてついには「ホット」と言えば温かいコーヒーの意味として何処に行って通用するようになりました。
ホットな飲み物は他にいくらでもありますが、ホットはコーヒーの代名詞になりました。それと同じように戦後になってから、紋付の裾模様と言わなくても留袖で通用するようになりました。それはミセスが着用する代表の着物だからです。
因みに何故留袖が無くなったのか。
時代の推移と共に袖丈が次第に長くなります、そして享保年間(1716年~)になりますと帯幅も広くなってきたことによって、着装がし難いことから既婚者のお袖にも振りが付けられるようになります。浮世絵などを見ますと江戸の中期には振りのある小袖、無い小袖と新旧の形が混在している様子が描かれています。
大奥の女性たちは市井の流行に関係なく留袖で通しました。
小袖、即ちきもののお袖は右図のように当初は全て振りが無かったのです。
阿国歌舞伎に代表される遊芸の女達は、踊りの演出効果を高めるために子供の脇明きのあるお袖にヒントを得て、振りのある小袖を着るようになります。
いずれの時代においても芸人達が流行を生み出す源となるのは同じで、芸人達の華やかな小袖の形が一般の人達にも広がって行き、若いミスの人達の晴れ着は振袖仕立てにするのが一般化されていきます。しかし、振袖を着るのはミスの間だけで結婚をすれば振りの無い留袖仕立てにするというのが習わしでした。
そういうことから留袖仕立ての着物はミセスの象徴だったのです。
その留袖仕立を代表する着物は紋付の裾模様のきものですから、ミセスを象徴する代表のきものということで、江戸褄をいつの時代からか留袖と称するようになりました。
風俗書などには留袖という呼称の小袖は無く、あくまでもお袖の形を表す言葉としてしか使われていません。
私達の若い頃は喫茶店に入って注文をする時は「温かいコーヒーをくださ」「冷たいコーヒーをください」と言っていました。それが何時からか「ホットコーヒーください」というようになりました。そしてついには「ホット」と言えば温かいコーヒーの意味として何処に行って通用するようになりました。
ホットな飲み物は他にいくらでもありますが、ホットはコーヒーの代名詞になりました。それと同じように戦後になってから、紋付の裾模様と言わなくても留袖で通用するようになりました。それはミセスが着用する代表の着物だからです。
因みに何故留袖が無くなったのか。
時代の推移と共に袖丈が次第に長くなります、そして享保年間(1716年~)になりますと帯幅も広くなってきたことによって、着装がし難いことから既婚者のお袖にも振りが付けられるようになります。浮世絵などを見ますと江戸の中期には振りのある小袖、無い小袖と新旧の形が混在している様子が描かれています。
大奥の女性たちは市井の流行に関係なく留袖で通しました。
2011年11月27日日曜日
色無地のきもの
大奥の職員は将軍と御台所に拝謁の出来るお目見(おめみえ)以上と、拝謁の出来ないお目見以下とに区別されています。
<お目見以上>
・上﨟(じょうろう)=御台所のお側に勤め典礼、学芸の
お相手になった。
最上級者ですが表向きには口を
出さない役。
・御年寄(おとしより)=老女とも局とも言った。大奥の
一切を切り回し最大の権力者。
篤姫のドラマでは滝山がその役
職でした。
・お客会釈(おきゃくあしらえ)=将軍の大奥入りやご家
門の来訪時の接待係
・中年寄(ちゅうとしより)=年寄りの助役
・中﨟(ちゅうろう)=将軍の側室。将軍が見染めても直
ぐに枕席にはべらせるというこは
できなかった。上級者に預けら
れて教育を受けてからでないと寝屋
には行けなかった。多くの場合は御
年寄のとりなしで中﨟になった。
そのために権力争いが生じた。
・お小姓(おこしょう)=御台所の遊び相手
・お錠口詰(おじょうぐちつめ)=表御殿と大奥の境目を
守り、将軍の大奥入りをいち速く
伝えた。
お目見以上の役職にはその他に10以上ありますが奥女中の上級者はお錠口詰ぐらいまでです。
中﨟以上は一生奉公で親の死に目に会うために帰宅できる程度です。
上級者の礼装は打掛け姿ですが、その打掛けは中﨟以上は綸子の縫模様です。映画テレビではピカピカの織物の打掛けを着ていますが、あれは嘘です。予算の関係でそうしています。
打掛けの下に着ている服を間着(あいぎ)と言います。
上図の写真を見て頂きますと無地のものを着ています。中﨟以上は紋縮緬と言いまして、地模様のある五定紋か三定紋の無地のきものを着ています。上級者は綸子で下級者は縮緬です
私達の一生には様々な通過儀礼があります。宮詣り、七五三、十三詣り、成人式、結納、入卒式典などは全て厳粛な式典です。その厳粛な式典に訪問着では華やか過ぎて厳粛な雰囲気に不釣り合いである。
もっと雰囲気に相応しい正装が欲しいということで、江戸時代に礼装として着用されていた間着を準礼装として採用して用い始めたのが色無地です。従って、色無地は地模様があって紋付になっているものが正式です。
この色無地は戦後の経済復興に伴って準礼装として一般化されたおきものです。
江戸小紋は細かい柄の一色染めで、着装すれば色無地の趣がありますので、江戸小紋に紋を付ければ色無地として着用してもよいということになりました。
<お目見以上>
・上﨟(じょうろう)=御台所のお側に勤め典礼、学芸の
お相手になった。
最上級者ですが表向きには口を
出さない役。
・御年寄(おとしより)=老女とも局とも言った。大奥の
一切を切り回し最大の権力者。
篤姫のドラマでは滝山がその役
職でした。
・お客会釈(おきゃくあしらえ)=将軍の大奥入りやご家
門の来訪時の接待係
・中年寄(ちゅうとしより)=年寄りの助役
・中﨟(ちゅうろう)=将軍の側室。将軍が見染めても直
ぐに枕席にはべらせるというこは
できなかった。上級者に預けら
れて教育を受けてからでないと寝屋
には行けなかった。多くの場合は御
年寄のとりなしで中﨟になった。
そのために権力争いが生じた。
・お小姓(おこしょう)=御台所の遊び相手
・お錠口詰(おじょうぐちつめ)=表御殿と大奥の境目を
守り、将軍の大奥入りをいち速く
伝えた。
お目見以上の役職にはその他に10以上ありますが奥女中の上級者はお錠口詰ぐらいまでです。
中﨟以上は一生奉公で親の死に目に会うために帰宅できる程度です。
上級者の礼装は打掛け姿ですが、その打掛けは中﨟以上は綸子の縫模様です。映画テレビではピカピカの織物の打掛けを着ていますが、あれは嘘です。予算の関係でそうしています。
打掛けの下に着ている服を間着(あいぎ)と言います。
上図の写真を見て頂きますと無地のものを着ています。中﨟以上は紋縮緬と言いまして、地模様のある五定紋か三定紋の無地のきものを着ています。上級者は綸子で下級者は縮緬です
私達の一生には様々な通過儀礼があります。宮詣り、七五三、十三詣り、成人式、結納、入卒式典などは全て厳粛な式典です。その厳粛な式典に訪問着では華やか過ぎて厳粛な雰囲気に不釣り合いである。
もっと雰囲気に相応しい正装が欲しいということで、江戸時代に礼装として着用されていた間着を準礼装として採用して用い始めたのが色無地です。従って、色無地は地模様があって紋付になっているものが正式です。
この色無地は戦後の経済復興に伴って準礼装として一般化されたおきものです。
江戸小紋は細かい柄の一色染めで、着装すれば色無地の趣がありますので、江戸小紋に紋を付ければ色無地として着用してもよいということになりました。
2011年11月26日土曜日
金箔
織物をゴージャスなムードにするために、特に帯には盛んに金箔が用いられます。
金箔は金から作られるのですが1gの金を引き延ばしますと畳1畳くらいの大きさになります。
帯の場合はそれを1~2mm幅のこまかい糸状に切りそろえます。
切り揃えた金箔をそのまま緯糸と一緒に織り込む方法と上図のように糸に金を巻きつけたもの、引箔と言いますがその糸を使用したものとあります。
上図Aは箔をそのまま織り込んだもので金色の光が強くなります。Bは引箔を使用したもので金色が上品な押さえられた織色になります。
金箔は着物の模様の加工にも用いられます。
箔置きと言うのですが金箔を糊の中で練り込んだものと、模様に糊を置いてから粉の金箔撒いて余分な箔を掃き落とすやりかたとあります。
高級品には後の技法が用いられることが多いです。
金箔は金から作られるのですが1gの金を引き延ばしますと畳1畳くらいの大きさになります。
帯の場合はそれを1~2mm幅のこまかい糸状に切りそろえます。
切り揃えた金箔をそのまま緯糸と一緒に織り込む方法と上図のように糸に金を巻きつけたもの、引箔と言いますがその糸を使用したものとあります。
上図Aは箔をそのまま織り込んだもので金色の光が強くなります。Bは引箔を使用したもので金色が上品な押さえられた織色になります。
金箔は着物の模様の加工にも用いられます。
箔置きと言うのですが金箔を糊の中で練り込んだものと、模様に糊を置いてから粉の金箔撒いて余分な箔を掃き落とすやりかたとあります。
高級品には後の技法が用いられることが多いです。
2011年11月25日金曜日
名古屋帯の起源
Dの写真の帯は名古屋帯と言います。
江戸時代の初期にロープ状の名護屋帯というものが一時流行しましたが、江戸時代の初期には廃れてしまい、帯は裂地(きれち)か布地に芯を入れたものが主流になりました。
因みに裂地というのは絹という意味で、布は麻とか木綿を意味します。
小袖(今のきもの)が中心の時代になるのは安土桃山時代からです。
小袖が中心の時代というのは貴賤を問わず普段は小袖姿で過ごすようになるという意味です。
その当初の帯の幅は2-3寸の細いものでした。
帯の幅が現在のように八寸位になるのは江戸の中期以降です。帯の幅が広くなったことによって帯によって上下に文様が分断されますので、小袖の模様が全体柄から肩裾模様に変化していきます。
そして帯は一般庶民は奢侈禁止令によって贅沢な織物を使用することを禁止されていましたので、専ら染めの丸帯か腹合わせ帯を使用してました。
Aは丸帯ですが、丸帯は一枚の布に芯を入れて仕立てたもので模様が全体に丸に通っているところから丸帯と言われています。
Cは腹合わせといいます。腹合合わせ帯は表と裏に異なった布を使用して芯を入れて仕立てたものです。
時代劇でよく見かける裏に黒繻子を使用し、表には文様のあるものを使用した腹合わせ帯は、昼夜帯と呼ばれていました。
帯結びはミス向き、ミス・ミセス共有の帯結びが結ばれ、武家風町人風と江戸の後期になりますと様々に結ばれていました。
文政6年(1823年)に東京の江東区にある亀戸天神(かめいどてんじん)のお太鼓橋の渡り初め式に、巽芸者と呼ばれていた深川の芸者衆が、男結びの一枚カルタに帯枕を入れて膨らませた帯結びをして渡り初めに華を添えました。その帯結びは太鼓橋に因んでお太鼓結びと命名されました。
当時はこれが江戸で一番新しい洒落た帯結びであるということで全国に広がっていきました。そして明治時代になりますと老若を問わず、帯結びはお太鼓結び一辺倒になっていきます。
それまでに結んでいた帯は腹合わせ帯が主流でした。腹合わせ帯は長さが1丈5寸~1尺くらいあります。それでお太鼓結びを結びますと二重太鼓になってしまいます。それを一重で簡単にお太鼓が結べるように、大正年間になって名古屋の女学校の先生がお太鼓結び専用の帯を考案しました。それが現在の名古屋帯です。名古屋の先生が考案したので名古屋帯と命名されました。
江戸時代の初期にロープ状の名護屋帯というものが一時流行しましたが、江戸時代の初期には廃れてしまい、帯は裂地(きれち)か布地に芯を入れたものが主流になりました。
因みに裂地というのは絹という意味で、布は麻とか木綿を意味します。
小袖(今のきもの)が中心の時代になるのは安土桃山時代からです。
小袖が中心の時代というのは貴賤を問わず普段は小袖姿で過ごすようになるという意味です。
その当初の帯の幅は2-3寸の細いものでした。
帯の幅が現在のように八寸位になるのは江戸の中期以降です。帯の幅が広くなったことによって帯によって上下に文様が分断されますので、小袖の模様が全体柄から肩裾模様に変化していきます。
そして帯は一般庶民は奢侈禁止令によって贅沢な織物を使用することを禁止されていましたので、専ら染めの丸帯か腹合わせ帯を使用してました。
Aは丸帯ですが、丸帯は一枚の布に芯を入れて仕立てたもので模様が全体に丸に通っているところから丸帯と言われています。
Cは腹合わせといいます。腹合合わせ帯は表と裏に異なった布を使用して芯を入れて仕立てたものです。
時代劇でよく見かける裏に黒繻子を使用し、表には文様のあるものを使用した腹合わせ帯は、昼夜帯と呼ばれていました。
帯結びはミス向き、ミス・ミセス共有の帯結びが結ばれ、武家風町人風と江戸の後期になりますと様々に結ばれていました。
文政6年(1823年)に東京の江東区にある亀戸天神(かめいどてんじん)のお太鼓橋の渡り初め式に、巽芸者と呼ばれていた深川の芸者衆が、男結びの一枚カルタに帯枕を入れて膨らませた帯結びをして渡り初めに華を添えました。その帯結びは太鼓橋に因んでお太鼓結びと命名されました。
当時はこれが江戸で一番新しい洒落た帯結びであるということで全国に広がっていきました。そして明治時代になりますと老若を問わず、帯結びはお太鼓結び一辺倒になっていきます。
それまでに結んでいた帯は腹合わせ帯が主流でした。腹合わせ帯は長さが1丈5寸~1尺くらいあります。それでお太鼓結びを結びますと二重太鼓になってしまいます。それを一重で簡単にお太鼓が結べるように、大正年間になって名古屋の女学校の先生がお太鼓結び専用の帯を考案しました。それが現在の名古屋帯です。名古屋の先生が考案したので名古屋帯と命名されました。
2011年11月24日木曜日
名古屋帯
名古屋帯はお太鼓結び専用の略装帯として考案されたものです。
A=織物の九寸名古屋帯(生糸を使用)
B=織物の九寸名古屋帯(生糸を使用)
C=紬の八寸名古屋帯(副蚕糸を使用)
D=染の九寸名古屋帯(生糸を使用)
その他に・紬の九寸帯(副蚕糸を使用)・織物の八寸帯
(生糸を使用)・博多の八寸帯(副蚕糸を使用)があります。
名古屋帯の本来のものは九寸名古屋帯です。帯の出来上がりの幅は礼正装用は八寸が基本です。
九寸名古屋は仕立てる前が九寸の幅がありますので九寸名古屋と呼ばれています。九寸は芯を入れて仕立てるのですが、仕立ててしまえは基本の八寸の幅になります。
九寸は芯を入れて仕立てますので手間がかかりますので簡単な仕立てで使用できるように戦後になって八寸名古屋帯ができました。名古屋帯はお太鼓結び専用の略装帯ですから礼装盛装の時は締めれません。
名古屋帯は外出着以下の着物の時に締める帯ですが、きものには染の着物俗に柔らか物と言われるものと、先染の織の物とがあります。
染の着物は、ご挨拶とかお礼に他家を訪問するというような儀礼の場にも着れるおきものです。
織りものはお洒落着です。
染の着物の時は上のA・Bの織物の名古屋帯を合わせるという約束事があります。
紬などの着物の時はCの紬の帯か、Dの染の帯を締めるという約束事になっています。
江戸時代はどんなに裕福であっても町人は織物の帯を締めることを奢侈禁止令で禁止されていました。
外出着、普段着を問わず染の腹合わせ帯を締めていましたので、染の帯は小紋などの染の着物にも締めれるという事になっています。
色の調和が取れていても材質の調和が守られていませんと着物を知らない人ということになります。
A=織物の九寸名古屋帯(生糸を使用)
B=織物の九寸名古屋帯(生糸を使用)
C=紬の八寸名古屋帯(副蚕糸を使用)
D=染の九寸名古屋帯(生糸を使用)
その他に・紬の九寸帯(副蚕糸を使用)・織物の八寸帯
(生糸を使用)・博多の八寸帯(副蚕糸を使用)があります。
名古屋帯の本来のものは九寸名古屋帯です。帯の出来上がりの幅は礼正装用は八寸が基本です。
九寸名古屋は仕立てる前が九寸の幅がありますので九寸名古屋と呼ばれています。九寸は芯を入れて仕立てるのですが、仕立ててしまえは基本の八寸の幅になります。
九寸は芯を入れて仕立てますので手間がかかりますので簡単な仕立てで使用できるように戦後になって八寸名古屋帯ができました。名古屋帯はお太鼓結び専用の略装帯ですから礼装盛装の時は締めれません。
名古屋帯は外出着以下の着物の時に締める帯ですが、きものには染の着物俗に柔らか物と言われるものと、先染の織の物とがあります。
染の着物は、ご挨拶とかお礼に他家を訪問するというような儀礼の場にも着れるおきものです。
織りものはお洒落着です。
染の着物の時は上のA・Bの織物の名古屋帯を合わせるという約束事があります。
紬などの着物の時はCの紬の帯か、Dの染の帯を締めるという約束事になっています。
江戸時代はどんなに裕福であっても町人は織物の帯を締めることを奢侈禁止令で禁止されていました。
外出着、普段着を問わず染の腹合わせ帯を締めていましたので、染の帯は小紋などの染の着物にも締めれるという事になっています。
色の調和が取れていても材質の調和が守られていませんと着物を知らない人ということになります。
2011年11月23日水曜日
小紋
小紋は細かい柄のきものと思っておられる方がいらっしゃいますが、上図の着尺は全て小紋です。
細かく柄が込み入っているものも、下図左の大きく飛んでいる柄も全て小紋です。
小紋とは小紋型という型紙で染めたきものという意味です。
型紙には大紋、中型、小紋型という種類があります。
旗や布団のように大きな模様を染める時は大紋型を使用します。浴衣や手拭などを染める時は中型を使用します。ちなみに浴衣は専ら中型で染めますので浴衣のことを別名中形とも言います。
着尺や羽尺を染める時は小紋型を使用しますので、柄の大きさに関係なく型染めの着物は全て小紋と言います。
小紋を染める時は柄色一色につき一枚の型紙を使います。柄がずれないように錐で空けたような細かい穴をあけて置いて、その穴に各型紙を合わせて型置きをして、柄色一色づつ染めていきます。全体で五色の柄色があれば5枚の型紙で一つの柄色を染めます。従って色数が多いほど型紙の枚数が増え、手間も掛かりますので値段が高くなります。
普通は品は型紙を使って色糊で染めますが、高級品は型紙の上から刷毛で色を差す手差し小紋というのがあります。
手差し小紋は大変な手間と技術が必要ですから値段も高くなります。
きものの値段は生地代よりも如何に手間が掛かった染であるか否かで決まります。
100%型染かそれとも手差しが加えられているか、全くの手差しかで値段は決まりますが、素人の人は色や柄の好みで選択するだけで、染の良し悪しまでは判別は難しいだろうと思います。
細かく柄が込み入っているものも、下図左の大きく飛んでいる柄も全て小紋です。
小紋とは小紋型という型紙で染めたきものという意味です。
型紙には大紋、中型、小紋型という種類があります。
旗や布団のように大きな模様を染める時は大紋型を使用します。浴衣や手拭などを染める時は中型を使用します。ちなみに浴衣は専ら中型で染めますので浴衣のことを別名中形とも言います。
着尺や羽尺を染める時は小紋型を使用しますので、柄の大きさに関係なく型染めの着物は全て小紋と言います。
小紋を染める時は柄色一色につき一枚の型紙を使います。柄がずれないように錐で空けたような細かい穴をあけて置いて、その穴に各型紙を合わせて型置きをして、柄色一色づつ染めていきます。全体で五色の柄色があれば5枚の型紙で一つの柄色を染めます。従って色数が多いほど型紙の枚数が増え、手間も掛かりますので値段が高くなります。
普通は品は型紙を使って色糊で染めますが、高級品は型紙の上から刷毛で色を差す手差し小紋というのがあります。
手差し小紋は大変な手間と技術が必要ですから値段も高くなります。
きものの値段は生地代よりも如何に手間が掛かった染であるか否かで決まります。
100%型染かそれとも手差しが加えられているか、全くの手差しかで値段は決まりますが、素人の人は色や柄の好みで選択するだけで、染の良し悪しまでは判別は難しいだろうと思います。
2011年11月22日火曜日
安土桃山時代の女子の服装
NHKで放映している大河ドラマ「江」の安土桃山時代の衣裳に付いて述べます。
私達の着ている着物のことを昔は小袖と言っていました。
その小袖が中心の時代になるのは安土桃山時代からです。
小袖が中心の時代というのは礼装は従来通りに存在しますが、貴賤を問わず普段は小袖で過ごすようになるという事です。
安土桃山時代に武家の女房は礼装に打掛姿を採用します。打掛は小袖の上に小袖を羽織る姿です。
これが武家の上級者の礼装ですからお市の方などの奥方は打掛姿でいます。
打掛は上級者の礼装ですから下級者や江などは普段は小袖姿で生活しています。
その小袖ですが身丈はおはし折のないつい丈です。
模様は友禅がありませんので簡単な一色染めの型染か、絞りが主です。
髪型は垂れ髪ですから今のように衣紋も抜きません。
男性と同じで襟が後ろで首に当たっています。
帯はこの当時は丸帯が主で、その帯幅は2~3寸の幅で自由な位置に結んでいました。
帯結びが後ろになるのは帯幅が広くなる元禄期以降です。
小袖の正式な着装は十二単の重ね着を真似て3枚重ねです。一番下に白の小袖、中は色物の小袖、表着の小袖は絵模様を着るということになっています。
打掛の正式な着装の時には打掛の下の小袖が3枚重ねになっています。
上図左がそのつい丈の時代の打掛姿です。平和な時代が続きますと衣服も優雅になり身丈が長くなり屋内では裾を引いて着装するようになります。右図がそうで、そうなりますと裾にふき綿が大きく入れられるようになります。
私達の着ている着物のことを昔は小袖と言っていました。
その小袖が中心の時代になるのは安土桃山時代からです。
小袖が中心の時代というのは礼装は従来通りに存在しますが、貴賤を問わず普段は小袖で過ごすようになるという事です。
安土桃山時代に武家の女房は礼装に打掛姿を採用します。打掛は小袖の上に小袖を羽織る姿です。
これが武家の上級者の礼装ですからお市の方などの奥方は打掛姿でいます。
打掛は上級者の礼装ですから下級者や江などは普段は小袖姿で生活しています。
その小袖ですが身丈はおはし折のないつい丈です。
模様は友禅がありませんので簡単な一色染めの型染か、絞りが主です。
髪型は垂れ髪ですから今のように衣紋も抜きません。
男性と同じで襟が後ろで首に当たっています。
帯はこの当時は丸帯が主で、その帯幅は2~3寸の幅で自由な位置に結んでいました。
帯結びが後ろになるのは帯幅が広くなる元禄期以降です。
小袖の正式な着装は十二単の重ね着を真似て3枚重ねです。一番下に白の小袖、中は色物の小袖、表着の小袖は絵模様を着るということになっています。
打掛の正式な着装の時には打掛の下の小袖が3枚重ねになっています。
上図左がそのつい丈の時代の打掛姿です。平和な時代が続きますと衣服も優雅になり身丈が長くなり屋内では裾を引いて着装するようになります。右図がそうで、そうなりますと裾にふき綿が大きく入れられるようになります。
2011年11月21日月曜日
松
松は四季常に青く寒い冬にも葉を改めず。そんなところから変わりやすい人の心を戒めるという意味から
松の常緑を貞徳になぞらえて吉祥としている。
松の長寿を寿ぎ(ことほぎ)更にこれを人の長寿に結び付けて目出度い木としています。
そんなところから同じく長寿と言われている鶴、亀との組み合わせがデザインに取り入れられています。
松は三寒三友として竹と梅と組み合わせて最もお目出度いものとして扱われています。
日本では松、竹、梅の順でランク付けされることがありますが、それは松は平安時代、竹は室町時代、梅は安土桃山時代に嘉樹とされましたので時代順に並べられたことがランク順にも用いられているのです。
松は神霊の依代(よりしろ)として、また神霊それ自体とみなされて霊木、神木ともみられ、正月のしめ飾りやへっついかまどの飾り松として用いられます。
松の常緑を貞徳になぞらえて吉祥としている。
松の長寿を寿ぎ(ことほぎ)更にこれを人の長寿に結び付けて目出度い木としています。
そんなところから同じく長寿と言われている鶴、亀との組み合わせがデザインに取り入れられています。
松は三寒三友として竹と梅と組み合わせて最もお目出度いものとして扱われています。
日本では松、竹、梅の順でランク付けされることがありますが、それは松は平安時代、竹は室町時代、梅は安土桃山時代に嘉樹とされましたので時代順に並べられたことがランク順にも用いられているのです。
松は神霊の依代(よりしろ)として、また神霊それ自体とみなされて霊木、神木ともみられ、正月のしめ飾りやへっついかまどの飾り松として用いられます。
2011年11月20日日曜日
自然と日本人の美意識
日本の衣服史上を見てみますと華やかな色彩の衣服が流布した時代はあります。
平安時代の藤原時代、安土桃山時代、元禄時代で元禄時代以降は財政逼迫期に入り、奢侈禁止令によって贅沢を抑制されましたので、文化文政期以降は一般人の好みは茶、黒、鼠などの渋い色が好まれるようになりました。
経済という時代背景に影響されるところも大きかったようですが、日本人は茶系統、鼠色系統、紺系統等の色目の衣服を着装しますと何か落ち着くのでしょうね。
額田王が春と秋を比較して秋に軍配を上げていますが、そのことに象徴されるようにどちらかというと秋の方が好きという人の方が多いのです。秋は色が褪せて行く季節ですから、色で言えば茶色系統や紺系統や鼠系統ですよね。
あまり派手ではない茶系統や鼠色系統や暗い藤色系統や黒色系統を着ていると落ちくのです。
これは日本の四季に大いに感化された好みであると言えます。
それと同時に東洋人独特の陰鬱な顔つきが影響しています。
自分の顔を何時も見ていますので陰鬱な顔つきに、派手な色が合わないという事を理屈抜きに肌で感じ取っているのだと思います。
私は武庫川女学院の町内に住んでいましたので、通学してくる生徒を数多く見ていますが、若いのに着ている衣服の色は白、黒、茶系統、紺系統、グレー系統の渋い色を着ている人が圧倒的です。
普段渋い色の衣服を着ていますので、急に派手な色目の衣服を着ますと浮いてしまって身にそぐわないで退けてしまったという経験をされた覚えがあると思います。
ところでグリーンは色目としては好きだという人が多いのですが、グリーン系統の色目の衣服を着ている人は少ないですね。日本は四季に恵まれ山も多く比較的グリーンが多いので、無意識にかぶってしまうのを避けているのではないかと思います。
こういう美意識も国民性の一環なんでしょうね。
平安時代の藤原時代、安土桃山時代、元禄時代で元禄時代以降は財政逼迫期に入り、奢侈禁止令によって贅沢を抑制されましたので、文化文政期以降は一般人の好みは茶、黒、鼠などの渋い色が好まれるようになりました。
経済という時代背景に影響されるところも大きかったようですが、日本人は茶系統、鼠色系統、紺系統等の色目の衣服を着装しますと何か落ち着くのでしょうね。
額田王が春と秋を比較して秋に軍配を上げていますが、そのことに象徴されるようにどちらかというと秋の方が好きという人の方が多いのです。秋は色が褪せて行く季節ですから、色で言えば茶色系統や紺系統や鼠系統ですよね。
あまり派手ではない茶系統や鼠色系統や暗い藤色系統や黒色系統を着ていると落ちくのです。
これは日本の四季に大いに感化された好みであると言えます。
それと同時に東洋人独特の陰鬱な顔つきが影響しています。
自分の顔を何時も見ていますので陰鬱な顔つきに、派手な色が合わないという事を理屈抜きに肌で感じ取っているのだと思います。
私は武庫川女学院の町内に住んでいましたので、通学してくる生徒を数多く見ていますが、若いのに着ている衣服の色は白、黒、茶系統、紺系統、グレー系統の渋い色を着ている人が圧倒的です。
普段渋い色の衣服を着ていますので、急に派手な色目の衣服を着ますと浮いてしまって身にそぐわないで退けてしまったという経験をされた覚えがあると思います。
ところでグリーンは色目としては好きだという人が多いのですが、グリーン系統の色目の衣服を着ている人は少ないですね。日本は四季に恵まれ山も多く比較的グリーンが多いので、無意識にかぶってしまうのを避けているのではないかと思います。
こういう美意識も国民性の一環なんでしょうね。
2011年11月19日土曜日
日本人と色
私達日本人は赤、オレンジ色、黄色、ピンク等の派手な色目というのはあまり好みません。
色としては好きであってもその色の衣服を着用するという事はあまりしません。彩のパッとした衣服は日本の町の風景には目立ちすぎるからでしょうね。
町の色や自然の色に溶け込んで目立たない色目の衣服を好みます。
これは町並等の風景の色目だけでなく東洋人独特の陰鬱な顔立ちというものも影響しています。
陰鬱な顔立ちに派手な色目は衣服だけが浮いてしまってそぐわないからです。
洋服の色は総体的に男女を問わず好みは地味目です。
それでは白人は総体的に派手な色目のものを着ているかというとそうでもありません。
派手な色を着用しているのは熱帯の常夏の国の人ぐらいですね。
色目はそんなに派手な色を着ていませんが稀に高齢のご婦人が赤などのジャケットなどを着ているのを見かけますが、お顔や体形にマッチして物凄く素敵です。
彫りが深く華やかな顔立ちと足が長くバストの大きい体形にはどんな派手な色目の洋服も似合うのです。
そういう素敵な姿を見ていますと「あーやはり洋服は体形の美しい外人のものだなぁー」という感じがします。
日本人の脚の短いバストのない陰鬱な顔には間違ってもフォーマルのロブ・デコルテやイブニングやカクテルは似合いません。若い人は何とか着れても中高年になると見れたものではありませんね。
体形と顔が洋服のフォーマルは受け付けないのです。
その点きものは逆に外人には似合いません。
顔が華やかすぎるのです。体形は足が長すぎて帯から上と帯から下の長さのバランスが下が長すぎておかしいのです。
そして着物のフォーマルは絵模様になっていますので、背が高すぎて色と柄が目立ちすぎるのです。
その点日本人が着ますと顔の陰鬱さを着物の華やかさが彩を添えて華やかな雰囲気にしてくれます。
背が低くて足が短くてもきものを着てホテルなどのパーティーの場に行きますと、外人のイブニングドレスを着た人に負けない華やかさを醸し出してくれます。
ホテルなどで着物姿の人を見かけますと洋服姿の人は勝てません。
皆さん美しく目立ちたいという願望を抱いて様々に努力をしお金も使っています。それなのに何を着れば自分を最も素敵に美しく見せれるかを知らなすぎます。最も素敵に美しく見えるきものを疎かにしすぎです。
色としては好きであってもその色の衣服を着用するという事はあまりしません。彩のパッとした衣服は日本の町の風景には目立ちすぎるからでしょうね。
町の色や自然の色に溶け込んで目立たない色目の衣服を好みます。
これは町並等の風景の色目だけでなく東洋人独特の陰鬱な顔立ちというものも影響しています。
陰鬱な顔立ちに派手な色目は衣服だけが浮いてしまってそぐわないからです。
洋服の色は総体的に男女を問わず好みは地味目です。
それでは白人は総体的に派手な色目のものを着ているかというとそうでもありません。
派手な色を着用しているのは熱帯の常夏の国の人ぐらいですね。
色目はそんなに派手な色を着ていませんが稀に高齢のご婦人が赤などのジャケットなどを着ているのを見かけますが、お顔や体形にマッチして物凄く素敵です。
彫りが深く華やかな顔立ちと足が長くバストの大きい体形にはどんな派手な色目の洋服も似合うのです。
そういう素敵な姿を見ていますと「あーやはり洋服は体形の美しい外人のものだなぁー」という感じがします。
日本人の脚の短いバストのない陰鬱な顔には間違ってもフォーマルのロブ・デコルテやイブニングやカクテルは似合いません。若い人は何とか着れても中高年になると見れたものではありませんね。
体形と顔が洋服のフォーマルは受け付けないのです。
その点きものは逆に外人には似合いません。
顔が華やかすぎるのです。体形は足が長すぎて帯から上と帯から下の長さのバランスが下が長すぎておかしいのです。
そして着物のフォーマルは絵模様になっていますので、背が高すぎて色と柄が目立ちすぎるのです。
その点日本人が着ますと顔の陰鬱さを着物の華やかさが彩を添えて華やかな雰囲気にしてくれます。
背が低くて足が短くてもきものを着てホテルなどのパーティーの場に行きますと、外人のイブニングドレスを着た人に負けない華やかさを醸し出してくれます。
ホテルなどで着物姿の人を見かけますと洋服姿の人は勝てません。
皆さん美しく目立ちたいという願望を抱いて様々に努力をしお金も使っています。それなのに何を着れば自分を最も素敵に美しく見せれるかを知らなすぎます。最も素敵に美しく見えるきものを疎かにしすぎです。
2011年11月18日金曜日
竹
竹も松と同じく長寿で秋にも葉を落とさず色が変わらない。
しかも一直線に伸び弾力も強く折れにくい。
これを人生に比して節操の堅いことを讃美しています。
竹は霊的なもので神霊の依代(よりしろ)として、また招代(おぎしろ)として現在でも神事には必要欠くべからず植物とされ、地鎮祭や七夕には主役として使用されている。
中国では瑞鳥鳳凰が桐の樹に宿り、竹の実を食べて成長するという慶寿の植物とされていた。節操の正しいものの代表として四君子の一つに数えられ、そういう考えが松と梅と結びつき歳寒三友松竹梅の観念を生み出し広く一般に知られるようになった。
しかも一直線に伸び弾力も強く折れにくい。
これを人生に比して節操の堅いことを讃美しています。
竹は霊的なもので神霊の依代(よりしろ)として、また招代(おぎしろ)として現在でも神事には必要欠くべからず植物とされ、地鎮祭や七夕には主役として使用されている。
中国では瑞鳥鳳凰が桐の樹に宿り、竹の実を食べて成長するという慶寿の植物とされていた。節操の正しいものの代表として四君子の一つに数えられ、そういう考えが松と梅と結びつき歳寒三友松竹梅の観念を生み出し広く一般に知られるようになった。
2011年11月17日木曜日
小袖
A=唐衣裳 B=袿 C=小袖袴 D=はつき E=湯巻
きもの、昔は小袖と呼ばれていたのですが、その小袖は貴族の間では当初は肌着として着用されていました。
十二単というのは俗称で正式には唐衣裳(からぎぬも)といい礼装でした。礼装ですから儀礼儀式用で普段は上図の袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。上級者は必ず袴を穿いて衣(きぬ)をはおっていました。
政権が武家に移行すると公家の力が減退し、それに伴って衣服の簡略化が進みます。
室町時代になりますと、小袖袴(こそではかま)のように上に衣(きぬ)をはおらない形、また「はつき」と言って袴を穿かない姿、湯巻と言って小袖に裳(も=裙ひらみ)を付けただけの姿も女官たちの服装として認められるようになります。そうなりますと肌着として用いられてきた小袖は露出する部分が多くなります。
洋服のTシャツが肌着として用いられていた時は白色であったものが、表着として用いられるようになりますと色が付けられプリントものが大勢を占めるようになったのと同じで、小袖も白であったものに色や柄が付けられるようになります。
時の支配者層は小袖を肌着として用いていましたが、庶民はずーと小袖を表着(うわぎ)として用いて来ました。安土桃山時代になりますと、その庶民の小袖と上級者の小袖が表着として着用するという点で合流をして、安土・桃山時代からは小袖中心の時代になります。
小袖中心の時代というのは貴賤を問わず普段は小袖で過ごすようになるということで,現在NHKの大河ドラマ 「江」はその小袖が衣服の中心になった時代のドラマで す。
ドラマ「江」では打掛姿が上級者の姿として出てきます。別名は「かいどり」ともいいます。
「はつき」というのは小袖に衣を羽織った姿ですが、その姿を真似て武家の女房達が小袖の上に小袖をかさねて礼装として採用しました。それが打掛です。
きもの、昔は小袖と呼ばれていたのですが、その小袖は貴族の間では当初は肌着として着用されていました。
十二単というのは俗称で正式には唐衣裳(からぎぬも)といい礼装でした。礼装ですから儀礼儀式用で普段は上図の袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。上級者は必ず袴を穿いて衣(きぬ)をはおっていました。
政権が武家に移行すると公家の力が減退し、それに伴って衣服の簡略化が進みます。
室町時代になりますと、小袖袴(こそではかま)のように上に衣(きぬ)をはおらない形、また「はつき」と言って袴を穿かない姿、湯巻と言って小袖に裳(も=裙ひらみ)を付けただけの姿も女官たちの服装として認められるようになります。そうなりますと肌着として用いられてきた小袖は露出する部分が多くなります。
洋服のTシャツが肌着として用いられていた時は白色であったものが、表着として用いられるようになりますと色が付けられプリントものが大勢を占めるようになったのと同じで、小袖も白であったものに色や柄が付けられるようになります。
時の支配者層は小袖を肌着として用いていましたが、庶民はずーと小袖を表着(うわぎ)として用いて来ました。安土桃山時代になりますと、その庶民の小袖と上級者の小袖が表着として着用するという点で合流をして、安土・桃山時代からは小袖中心の時代になります。
小袖中心の時代というのは貴賤を問わず普段は小袖で過ごすようになるということで,現在NHKの大河ドラマ 「江」はその小袖が衣服の中心になった時代のドラマで す。
ドラマ「江」では打掛姿が上級者の姿として出てきます。別名は「かいどり」ともいいます。
「はつき」というのは小袖に衣を羽織った姿ですが、その姿を真似て武家の女房達が小袖の上に小袖をかさねて礼装として採用しました。それが打掛です。
2011年11月16日水曜日
椿
椿は中国では瑞祥破邪の霊樹とする観念があり、長寿をめでる宮廷の采女(後宮の女官)はこの椿を装束の文様としました。
そういう観念に反して椿は陰の花として普通の人家には植えるものでなく、花が首からポトリと落ちるので縁起の悪いものという観念がありますので、文様として用いられることは少ないのです。
そういう観念に反して椿は陰の花として普通の人家には植えるものでなく、花が首からポトリと落ちるので縁起の悪いものという観念がありますので、文様として用いられることは少ないのです。
2011年11月15日火曜日
足袋の文数
家康が寛永通宝を作ったものの中国の貨幣が強くて一向に通用しないので仕方なくお触れを出して寛永通宝を使え、ついては草履、下駄、足袋はすべてこの寛永通宝を単位として表現する。一枚で一文、十枚で十文とすると決めてしまいました。それから足袋は文数で呼ばれました。
足袋はcmで表されるようになるのはそんなに古い話でなく、それまでは専ら文数で表し、一文は2.4cmですから私は26cmですから11文半を履くなどと言っていました。
昔の公家の履物は靴、履、沓(いずれもくつ)でしたの襪(しとうず)という指のないひも付きのものでした。
足袋に親指の股が付くのは高貴な人が草履を履くようになってからで、江戸時代は一般庶民は礼装時以外は足袋を履くのを禁止されていました。
明治になって一般の方たちも足袋を履くようになり足袋にこはぜが付けられるようになりました。
こはぜは明治10年位からだと文献にあります。
足袋はcmで表されるようになるのはそんなに古い話でなく、それまでは専ら文数で表し、一文は2.4cmですから私は26cmですから11文半を履くなどと言っていました。
昔の公家の履物は靴、履、沓(いずれもくつ)でしたの襪(しとうず)という指のないひも付きのものでした。
足袋に親指の股が付くのは高貴な人が草履を履くようになってからで、江戸時代は一般庶民は礼装時以外は足袋を履くのを禁止されていました。
明治になって一般の方たちも足袋を履くようになり足袋にこはぜが付けられるようになりました。
こはぜは明治10年位からだと文献にあります。
2011年11月13日日曜日
白色
冠位十二階の制において冠の色で位階を示すようになりました。
徳(とく)、仁(じん)、礼(れい)、信(しん)、義(ぎ)、智(ち)に大小を設けて十二階としたわけですが、白色は義の臣下の色として用いられていました。
その後奈良時代の大宝律令(701年)によって服制が改められ服色によって階級が表現されるようになり白色は臣下の色から姿を消します。
白昼という言葉があるように白色はさんさんと輝く太陽の色、即ち天皇を象徴する色として扱われるようになります。
白はまた清浄な色として神事に欠くことの出来ない神聖な色として扱われるようになります。
現在は喪の色と言えば黒が一般的ですが、黒が喪の色として普及するのは大正年間以降でそれ以前は白でした。
結婚式も喪服も白色ですが、吉事の白色は地に地模様がある者を使用し、喪の場合は無地を用いました。
目にし手にすることの出来る事物の全ては生活を豊かにするためのものであり吉事に通じす。したがっておめでたいときには大自然の力にあやかるという事で地模様のある白を用いましたが、凶事の時には無地を用いたわけです。
時代劇を見ていますと大名や高貴な役職者は襦袢の襟に白色を用いていますが、下級の武士は鼠色を用いています。また町人は一般的には黒色の半襟を付けています。
これは白色は高貴の人の用いる色で下級者は用いることを禁止されていました。
下級者が白色を用いていて罰せられたという逸話も数々あるそうです。
徳(とく)、仁(じん)、礼(れい)、信(しん)、義(ぎ)、智(ち)に大小を設けて十二階としたわけですが、白色は義の臣下の色として用いられていました。
その後奈良時代の大宝律令(701年)によって服制が改められ服色によって階級が表現されるようになり白色は臣下の色から姿を消します。
白昼という言葉があるように白色はさんさんと輝く太陽の色、即ち天皇を象徴する色として扱われるようになります。
白はまた清浄な色として神事に欠くことの出来ない神聖な色として扱われるようになります。
現在は喪の色と言えば黒が一般的ですが、黒が喪の色として普及するのは大正年間以降でそれ以前は白でした。
結婚式も喪服も白色ですが、吉事の白色は地に地模様がある者を使用し、喪の場合は無地を用いました。
目にし手にすることの出来る事物の全ては生活を豊かにするためのものであり吉事に通じす。したがっておめでたいときには大自然の力にあやかるという事で地模様のある白を用いましたが、凶事の時には無地を用いたわけです。
時代劇を見ていますと大名や高貴な役職者は襦袢の襟に白色を用いていますが、下級の武士は鼠色を用いています。また町人は一般的には黒色の半襟を付けています。
これは白色は高貴の人の用いる色で下級者は用いることを禁止されていました。
下級者が白色を用いていて罰せられたという逸話も数々あるそうです。
2011年11月12日土曜日
きものが作法を変えた
上記左図は小袖姿で身丈は対丈であることがわかります。
きものの丈が長くなって屋内で裾を引いて着るようになるのは元禄期以降です。それまでは男性と同じように女性も対丈に着て衣紋も抜かない着装をしていました。
裾を引くようになりますと身幅が広いと足捌きが悪いので反物の幅が狭くなります。当然のことながら身幅も狭く仕立てるようになります。右の二枚の図を見て頂きますと、上級の女房も一般庶民の女性も男性のように「胡坐」「立膝」で座っています。
日本の文化は大陸の模倣で始まっています。中国や朝鮮では今も女性は立膝ですから、日本人もそれに倣って男性は胡坐、女性は立膝というのが一般的な座り方だったのです。そのことを上図は証明しています。
裾を引いて歩くようになってから身幅が狭くなり、反物の幅そのものが狭くなりますが、それ以前は反物の幅が42cmくらいありましたので身幅が広く、その上身丈は対丈ですから、胡坐や立膝で座っていても前がはだけて見苦しいということがなかったのです。
身幅が狭くなると胡坐や立膝では前がはだけて見苦しいので、座礼は男女共に正座をするようになります。 公家の女房も普段は袴を穿かなくなったことも正座を促す一因になったのではと思います。
映画や演劇では男性は江戸時代以前は胡坐で、そのままの姿で描いていますが、女性は胡坐や立膝の姿では女らしさが出ないから、作法の面では時代考証を無視して描いているのだと思います。若い監督ならそういうことを知らない人もいるかも知れませんね。
お茶は村田珠光が開祖となって室町時代から行われているのですが、正座が普及する以前はどういう形で茶事をやっていたのでしょうね。そういうことを解説している茶人はいますか。皆さんの中で知っている人がいらっしゃったら教えて下さい。
きものの丈が長くなって屋内で裾を引いて着るようになるのは元禄期以降です。それまでは男性と同じように女性も対丈に着て衣紋も抜かない着装をしていました。
裾を引くようになりますと身幅が広いと足捌きが悪いので反物の幅が狭くなります。当然のことながら身幅も狭く仕立てるようになります。右の二枚の図を見て頂きますと、上級の女房も一般庶民の女性も男性のように「胡坐」「立膝」で座っています。
日本の文化は大陸の模倣で始まっています。中国や朝鮮では今も女性は立膝ですから、日本人もそれに倣って男性は胡坐、女性は立膝というのが一般的な座り方だったのです。そのことを上図は証明しています。
裾を引いて歩くようになってから身幅が狭くなり、反物の幅そのものが狭くなりますが、それ以前は反物の幅が42cmくらいありましたので身幅が広く、その上身丈は対丈ですから、胡坐や立膝で座っていても前がはだけて見苦しいということがなかったのです。
身幅が狭くなると胡坐や立膝では前がはだけて見苦しいので、座礼は男女共に正座をするようになります。 公家の女房も普段は袴を穿かなくなったことも正座を促す一因になったのではと思います。
映画や演劇では男性は江戸時代以前は胡坐で、そのままの姿で描いていますが、女性は胡坐や立膝の姿では女らしさが出ないから、作法の面では時代考証を無視して描いているのだと思います。若い監督ならそういうことを知らない人もいるかも知れませんね。
お茶は村田珠光が開祖となって室町時代から行われているのですが、正座が普及する以前はどういう形で茶事をやっていたのでしょうね。そういうことを解説している茶人はいますか。皆さんの中で知っている人がいらっしゃったら教えて下さい。
2011年11月11日金曜日
何故十二単という俗称が付けられたのか
十二単の単は衣(きぬ)の意味で、衣は上に着装している大袖のきもののことですから、衣を重ねて着たことから付けられたものであることは間違いのないことだと思います。
それでは十二領(りょう=枚)重ねているのでしょうか。
着ている服を下から順に数えます。
・白の小袖
・長袴
・単衣(ひとえ) =単仕立ての身丈も裄も最も長い衣
・重袿五領(かさねうちき)五枚重ねる (室町期から5枚と定められる)
・打衣(うちぎぬ) =砧で布を打ちつけて光沢を出してある無地の衣
・表着(うわぎ) =一番上に着る衣で五色の糸で彩色した織物で出来ている
・唐衣(からぎぬ)
・裳(も)=腰で後ろに付けている
以上十二点着装していますので、ここから来ているのだと思います。
重袿は三枚を一組として五組七組、即ち15枚、21枚と重ねて着ていた時もありますが、
室町時代の末期に五衣(いつつぎ)と言って5枚に定められました。
5枚に定着してから12点になったのですから、十二単という俗称は室町時代以降に付けられた俗称ではないでしょうか。
正式には唐・衣・裳といいます。
それでは十二領(りょう=枚)重ねているのでしょうか。
着ている服を下から順に数えます。
・白の小袖
・長袴
・単衣(ひとえ) =単仕立ての身丈も裄も最も長い衣
・重袿五領(かさねうちき)五枚重ねる (室町期から5枚と定められる)
・打衣(うちぎぬ) =砧で布を打ちつけて光沢を出してある無地の衣
・表着(うわぎ) =一番上に着る衣で五色の糸で彩色した織物で出来ている
・唐衣(からぎぬ)
・裳(も)=腰で後ろに付けている
以上十二点着装していますので、ここから来ているのだと思います。
重袿は三枚を一組として五組七組、即ち15枚、21枚と重ねて着ていた時もありますが、
室町時代の末期に五衣(いつつぎ)と言って5枚に定められました。
5枚に定着してから12点になったのですから、十二単という俗称は室町時代以降に付けられた俗称ではないでしょうか。
正式には唐・衣・裳といいます。
2011年11月10日木曜日
紫
冠位十二階の制で冠の色によって位階が表現されるようになります。
紫は徳冠の位階の色として制定されます。
紫微(しび)というのは北斗の北に位置する星の名で、中国の天文学ではここを天帝の居所とされています。
そんなことから天皇の宮殿の意味として用いられ、それに因んで天皇の住まいを紫宮(しきゅう)といいます。
紫はそのように大変高貴な色ですから、紫は五行を統べるということで一番格調の高い徳冠の色として用いられていました。
奈良時代になって色にも順位が付けられ位階相当の色というものが定められます。
位階の低いものは自分の位階以上の色は用いれれなくなるのです。
天皇と皇太子の色は白色と黄丹(おうに)で臣下の最高位は紫です。
そんなことで紫は高貴な人が用いる色として、例えば高僧の衣の色も紫が用いられています。
紫は昔は主に紫草の根(紫根)で染められていました。
紫は徳冠の位階の色として制定されます。
紫微(しび)というのは北斗の北に位置する星の名で、中国の天文学ではここを天帝の居所とされています。
そんなことから天皇の宮殿の意味として用いられ、それに因んで天皇の住まいを紫宮(しきゅう)といいます。
紫はそのように大変高貴な色ですから、紫は五行を統べるということで一番格調の高い徳冠の色として用いられていました。
奈良時代になって色にも順位が付けられ位階相当の色というものが定められます。
位階の低いものは自分の位階以上の色は用いれれなくなるのです。
天皇と皇太子の色は白色と黄丹(おうに)で臣下の最高位は紫です。
そんなことで紫は高貴な人が用いる色として、例えば高僧の衣の色も紫が用いられています。
紫は昔は主に紫草の根(紫根)で染められていました。
2011年11月9日水曜日
芸者に見る衣替え
紋裾を来た京芸者 今日芸者独特の鬢を横に張らした結髪
芸者がお座敷に着て出る裾引きのきものを出の衣裳といいます。
その出の衣裳は次の様に衣替えします。
・1月~3月までは二枚襲(かさね) ・4月裾にふき綿の入った一枚袷
・5月は裾綿抜きの一枚袷 ・6月単衣か紗袷 ・7~8月絽縮緬
・9月単衣 ・10月裾のふき綿抜きの一枚袷 ・11月裾のふき綿入の一枚袷
・12月ふき綿入の二枚襲
以上が芸者の衣替えで、同じ袷や単でも春、秋。冬に着装する衣裳は季節の色柄に相応しいものを
着ますますので年間に着替える衣裳の数は大変なものです。
映画演劇などの衣裳会社は芸者や舞妓の衣裳を別染めで作るのは莫大な制作費が掛かりますので、私が入った頃は古着を買っていました。昔は貢いでくれる旦那衆が沢山いましたので、少し古くなると古着屋に回って来ていたのですが、今は時代が代わり旦那衆が少なくなりましたので、衣裳も古着屋に回ってくる頃は再利用出来る状態ではなくなりました。
そんなところにも時代が反映されています。
ところで現在では留袖の礼装しか下着は重ねなくなりました。
中振袖や訪問着には下着はついていません。昔は富裕層は普段着でも重ね着をしていましたので,どんな着物に下着を重ねても間違いではありません。
それが証拠に中振袖や訪問着を着装する時に重ね衿を付けます。
それは襟元を華美に装飾するためのものでなく、省略して襟だけを下着として重ねてきるのです。
その下着は上記のように、季節によって重ねたり重ねなかったりします。
例えば4月になって着る場合は、本当は重ね襟はしない方がいいのです。
そういうことをご存じでない方は華やかにしたいから、どうしても重ね襟を付けてほしいという人も少なくありません。
留袖も6月9月の単や秋袷、春袷の時期には下着は重ねない方がいいのですが、最近は殆ど比翼仕立になって、表着にくっ付けられていますのでそういう調節ができません。
比翼仕立てにすることが通常になってきているということは、きものの決まりに付いてご存じでない人が増えてきている証しです。
芸者がお座敷に着て出る裾引きのきものを出の衣裳といいます。
その出の衣裳は次の様に衣替えします。
・1月~3月までは二枚襲(かさね) ・4月裾にふき綿の入った一枚袷
・5月は裾綿抜きの一枚袷 ・6月単衣か紗袷 ・7~8月絽縮緬
・9月単衣 ・10月裾のふき綿抜きの一枚袷 ・11月裾のふき綿入の一枚袷
・12月ふき綿入の二枚襲
以上が芸者の衣替えで、同じ袷や単でも春、秋。冬に着装する衣裳は季節の色柄に相応しいものを
着ますますので年間に着替える衣裳の数は大変なものです。
映画演劇などの衣裳会社は芸者や舞妓の衣裳を別染めで作るのは莫大な制作費が掛かりますので、私が入った頃は古着を買っていました。昔は貢いでくれる旦那衆が沢山いましたので、少し古くなると古着屋に回って来ていたのですが、今は時代が代わり旦那衆が少なくなりましたので、衣裳も古着屋に回ってくる頃は再利用出来る状態ではなくなりました。
そんなところにも時代が反映されています。
ところで現在では留袖の礼装しか下着は重ねなくなりました。
中振袖や訪問着には下着はついていません。昔は富裕層は普段着でも重ね着をしていましたので,どんな着物に下着を重ねても間違いではありません。
それが証拠に中振袖や訪問着を着装する時に重ね衿を付けます。
それは襟元を華美に装飾するためのものでなく、省略して襟だけを下着として重ねてきるのです。
その下着は上記のように、季節によって重ねたり重ねなかったりします。
例えば4月になって着る場合は、本当は重ね襟はしない方がいいのです。
そういうことをご存じでない方は華やかにしたいから、どうしても重ね襟を付けてほしいという人も少なくありません。
留袖も6月9月の単や秋袷、春袷の時期には下着は重ねない方がいいのですが、最近は殆ど比翼仕立になって、表着にくっ付けられていますのでそういう調節ができません。
比翼仕立てにすることが通常になってきているということは、きものの決まりに付いてご存じでない人が増えてきている証しです。
2011年11月8日火曜日
衣紋道
藤原時代になりますと礼装は日本独自(中国伝来の朝服のアレンジ)の衣服が着用されるようになります。
男子は衣冠束帯(いかんそくたい)、女子は俗に十二単{正式には(唐衣裳)からぎぬも}と言われるものです。
衣冠束帯は平安末期の鳥羽帝以前は凋装束(なえしょうぞく)といって、全体にやわらかい裂地のものでしたので、着装が下手でも目立たなかったのですが、鳥羽帝の時に剛装束(こわしょうぞく)と言って、全体を糊で固めてゴワゴワに張ったものになりました。そうなりますと下手に着ていると目立つので着付けをしてもらう人が必要になりました。
鳥羽帝の左大臣となった源有仁(みなもとのありひと)が開祖となって、着付や調度といった衣服全般に渡って専門に携わる衣紋道をつくりました。
衣紋道では着付けに携わる人を「衣紋者」と言いました。装束を着付ける時は「前衣紋者」と「後衣紋者」の二人で着付けます。後ろ衣紋者の方が上級者です。
源有仁を開祖とした衣紋道は「高倉流」「山科流」に引き継がれ現在も存在しています。
凋装束から剛装束に変わった時代は武家が台頭してきた時代で、公家は容儀を整えて威厳を保たなければいけないという政治上の理由から生じたものではないでしょうか。
私は長年着付けに携わったいますが、お稽古に来られる人の中で特にお茶を習っている人の中には、お茶は高尚なお稽古事で着付けに対しては「着付ぐらい」という侮りを持つ方が少なくありません。それは何を根拠としてそういう観念をお持ちになられるのかしれませんが、歴史が古いということからいえば衣紋道、即ち着付けは鎌倉時代の初期からのものであり、お茶は室町期以降ですから歴史の重みは着付けの方が重いのです。
男子は衣冠束帯(いかんそくたい)、女子は俗に十二単{正式には(唐衣裳)からぎぬも}と言われるものです。
衣冠束帯は平安末期の鳥羽帝以前は凋装束(なえしょうぞく)といって、全体にやわらかい裂地のものでしたので、着装が下手でも目立たなかったのですが、鳥羽帝の時に剛装束(こわしょうぞく)と言って、全体を糊で固めてゴワゴワに張ったものになりました。そうなりますと下手に着ていると目立つので着付けをしてもらう人が必要になりました。
鳥羽帝の左大臣となった源有仁(みなもとのありひと)が開祖となって、着付や調度といった衣服全般に渡って専門に携わる衣紋道をつくりました。
衣紋道では着付けに携わる人を「衣紋者」と言いました。装束を着付ける時は「前衣紋者」と「後衣紋者」の二人で着付けます。後ろ衣紋者の方が上級者です。
源有仁を開祖とした衣紋道は「高倉流」「山科流」に引き継がれ現在も存在しています。
凋装束から剛装束に変わった時代は武家が台頭してきた時代で、公家は容儀を整えて威厳を保たなければいけないという政治上の理由から生じたものではないでしょうか。
私は長年着付けに携わったいますが、お稽古に来られる人の中で特にお茶を習っている人の中には、お茶は高尚なお稽古事で着付けに対しては「着付ぐらい」という侮りを持つ方が少なくありません。それは何を根拠としてそういう観念をお持ちになられるのかしれませんが、歴史が古いということからいえば衣紋道、即ち着付けは鎌倉時代の初期からのものであり、お茶は室町期以降ですから歴史の重みは着付けの方が重いのです。
2011年11月7日月曜日
ドラマ「江」に見る打掛
公家の女房達は普段は袴を穿いて上に衣を羽織った袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。
公家の勢力が衰退し益々武家の力が台頭してきますと、公家社会の服制は簡略化されていきます。
室町時代になりますと袴を穿かないで小袖の上に衣だけを羽織る「はつき」という形が公服として認
められるようになります。
権力者の武家の女房達はその「はつき」を最上の服として当初は用いていたのですが、桃山時代にな
りますと衣の代わりに小袖の上にもう一枚小袖を羽織って着る「打掛姿」または「かいどり」という
姿を自分達の礼服として用いるようになります。
写真は「ねね」が織物の打掛を着ている姿で、絞りに刺繍をあしらった打掛を着ています。
日本の染織の歴史を見ますと染物よりも、友禅が考案されて繊細な絵柄を写し出すようになる以前
は織物の方が進んでいました。それは染方が草木染が主であるという、技術的な難しさが原因であっ
たろうと思います。
従って織物の打掛もあったことはあったのですが、小袖は本来は肌着、下着であったものから発達し
てきた衣服ですから、肌になじんで柔らかい材質のものが好まれました。
天正時代に堺では明から伝わった綸子、縮緬が織られるようになり、羽二重、綸子、縮緬が小袖の
材質の主となります。打掛は小袖と同じく、柔らかくて肌になじみやすい綸子や縮緬に彩色をして用
いることが主でした。
民放の大奥ものを見ていますと全員が金ぴかの織物の打掛を着ています。
あれは綸子地に染と刺繍を施した打掛を製作しますと別染めですから大変高額なものになりますので
、安価に出来る化繊の織物を用いて形だけを同じにしているのです。
そういう点ではNHKはお金をかけていますね。民放では予算的にできないでしょうね。
公家の勢力が衰退し益々武家の力が台頭してきますと、公家社会の服制は簡略化されていきます。
室町時代になりますと袴を穿かないで小袖の上に衣だけを羽織る「はつき」という形が公服として認
められるようになります。
権力者の武家の女房達はその「はつき」を最上の服として当初は用いていたのですが、桃山時代にな
りますと衣の代わりに小袖の上にもう一枚小袖を羽織って着る「打掛姿」または「かいどり」という
姿を自分達の礼服として用いるようになります。
写真は「ねね」が織物の打掛を着ている姿で、絞りに刺繍をあしらった打掛を着ています。
日本の染織の歴史を見ますと染物よりも、友禅が考案されて繊細な絵柄を写し出すようになる以前
は織物の方が進んでいました。それは染方が草木染が主であるという、技術的な難しさが原因であっ
たろうと思います。
従って織物の打掛もあったことはあったのですが、小袖は本来は肌着、下着であったものから発達し
てきた衣服ですから、肌になじんで柔らかい材質のものが好まれました。
天正時代に堺では明から伝わった綸子、縮緬が織られるようになり、羽二重、綸子、縮緬が小袖の
材質の主となります。打掛は小袖と同じく、柔らかくて肌になじみやすい綸子や縮緬に彩色をして用
いることが主でした。
民放の大奥ものを見ていますと全員が金ぴかの織物の打掛を着ています。
あれは綸子地に染と刺繍を施した打掛を製作しますと別染めですから大変高額なものになりますので
、安価に出来る化繊の織物を用いて形だけを同じにしているのです。
そういう点ではNHKはお金をかけていますね。民放では予算的にできないでしょうね。
2011年11月6日日曜日
「江」の時代の小袖
その女性の小袖は現在のようにおはし折を設けて着装するのではなく男性と同じ対丈で、衣紋も垂髪ですから男性と同じように抜きません。
時代考証的に言えば当時の小袖は身幅がうんと広いのです。
大人のきものは長着と言います。長着一枚分を一反といいます。一反の長さは3丈が基本です。
寛永年間の幕府通達には一反は曲尺の3丈2尺(9m70cm)の長さで、幅は1尺4寸(42cm)に定めると文献にあります。
現在の一反は鯨尺で基本的には3丈(約12m)あり幅は9寸5分(36cm)です。
反物の幅が現在のような幅になるのは元禄期以降です。
それまでは反物の幅が広かったので元禄期以降と以前では、仕立てる時の裁ち方が図のように全く違います。
元禄期以前の小袖は裄は極端に短く、身幅が物凄く広く、襟先の位置は低いのが天正小袖の特徴です。
そういう極端に身幅の広い小袖を着装しますと、能装束の小袖姿に見られるように上前は後ろの方に回り、褄先は跳ね上がり、襟合わせは首に巻きつけたような打ち合わせの深い襟合わせになってしまいます。
私が映画の仕事をしていた頃は天正小袖の特徴を表現するために、普通の身幅のきものですが上前は少し後ろに回して上前の褄先を上にはねて能衣装の小袖姿のような着付けをしました。
時代考証に忠実に着装すればそうしなければいけないのですが、それでは美しい着装に見えません。
ドラマであり商業演劇ですから、時代考証に忠実よりもヒロイン達を美しく見えるようにすることの方が大切だと思います。
小袖の着装方だけは時代考証的には少し違うのですが、そういう事よりも「江」を見ていると小袖の美しさと時代考証的によく考えて製作されていることに酔ってしまいます。前回にも記しましたがさすがはNHKです。
2011年11月5日土曜日
ドラマ「江」を見て思う
お市の方役の鈴木保奈美さんの着物姿は大人の女性のしっとりとした感じが出ていて素敵でした。それに劣らず宮沢りえさんの着物姿も素敵です。
宮沢りえさんの伊右エ門のお茶のコマーシャルの着物姿は、以前から何とも言えない品の良い色香が漂っていて素晴らしいと思っていたのですが、「江」のドラマの着物姿もやはり素敵です。
彼女は着物にはもってこいの体形をされているのです。
着物を着た時は襟足から肩先に流れる肩山のラインが大切で、宮沢りえさんの肩山の流れは大変優しい流れになっていて色香を増幅させています。
対丈の小袖は男性の着付と同じように、帯の位置は前は下腹部にあてがい、後ろに行くほど少し脇上がりに巻きつけて後ろでは腰の位置で結びます。
茶々も同じように下腹部に帯を当てがい腰で結んでいるのですが、腰骨の位置が高いのでしょうね、他の役者よりも高い位置に帯が巻きつけられているように見えます。
彼女達はスタイルが良くでウエストも細いでしょうから、あのような着装をするには恐らくバスタオル一枚では足らないくらいに補正をしています。
対丈の小袖はウエストに補正を入れていないとあのような素敵なシルエットはでません。
ウエストが窪んだままですと帯はウエストの細い部分に上がってしまって、無様な着装になってしまいます。対丈で帯も細いので着装は簡単なようにおもいますが、そこが天正小袖の着装の難しさです。
腰元達まできれいに補正をして皆さん素敵に着こなしています。見ていて気持ちがいいです。
宮沢りえさんの伊右エ門のお茶のコマーシャルの着物姿は、以前から何とも言えない品の良い色香が漂っていて素晴らしいと思っていたのですが、「江」のドラマの着物姿もやはり素敵です。
彼女は着物にはもってこいの体形をされているのです。
着物を着た時は襟足から肩先に流れる肩山のラインが大切で、宮沢りえさんの肩山の流れは大変優しい流れになっていて色香を増幅させています。
対丈の小袖は男性の着付と同じように、帯の位置は前は下腹部にあてがい、後ろに行くほど少し脇上がりに巻きつけて後ろでは腰の位置で結びます。
茶々も同じように下腹部に帯を当てがい腰で結んでいるのですが、腰骨の位置が高いのでしょうね、他の役者よりも高い位置に帯が巻きつけられているように見えます。
彼女達はスタイルが良くでウエストも細いでしょうから、あのような着装をするには恐らくバスタオル一枚では足らないくらいに補正をしています。
対丈の小袖はウエストに補正を入れていないとあのような素敵なシルエットはでません。
ウエストが窪んだままですと帯はウエストの細い部分に上がってしまって、無様な着装になってしまいます。対丈で帯も細いので着装は簡単なようにおもいますが、そこが天正小袖の着装の難しさです。
腰元達まできれいに補正をして皆さん素敵に着こなしています。見ていて気持ちがいいです。
2011年11月4日金曜日
「江」の時代の肩衣袴と江戸時代後期の裃
武家の通常公服は直垂(したたれ)であったものが、素襖の袖が邪魔で肩で結んでいる姿が前回掲載の写真に見られるように、「江」の時代になりますと直垂系統の袖が取り除かれて肩衣袴が誕生します。肩衣袴は別名「手無し」などと呼ばれました。
江戸時代になり平和な時代が続きますと、衣服は形式化して華美になり、写真のように肩には鯨のひげを芯にして大きく横に張らしたものになります。まるで「鳥の羽を広げたたる如し」という肩衣になります。
前身頃は襞を深く取ってうんと狭くなります。袴はスカートのように末広がりになり、前時代のズボン状の形から一変します。
肩衣袴の袴紐は当初は別布ですが、江戸時代の裃の時代には共紐になり、腰の部分には腰板が付けられるようになります。
紋は当初から大紋、素襖と同じく胸と背と腰の部分とに付けられました。前時代には素襖のなごりで袴の横の投げの部分にも紋が付けられていたものもありましたが、江戸時代の裃の時代になりますと袴は後ろの腰板の部分にだけ付けられるようになります。
江戸時代の裃の時代になりますと柄は細かい単色の小紋になります。
小紋には将軍家の「松葉」、島津家の「大小霰」、鍋島家の「胡麻」、武田家の「武田菱」、加賀前田家の「菊菱」など、他の者が用いてはいけない留柄というものも出来ます。
その裃の文様が後に江戸小紋としてきものの柄に用いられるようになります。
江戸小紋という名称は昭和29年に文化保護委員会が江戸時代の技術をそのままを受け継いでいる小紋型染を、無形文化財に指定するときに多彩な小紋と区別するために「江戸小紋」と名付けました。
江戸時代になり平和な時代が続きますと、衣服は形式化して華美になり、写真のように肩には鯨のひげを芯にして大きく横に張らしたものになります。まるで「鳥の羽を広げたたる如し」という肩衣になります。
前身頃は襞を深く取ってうんと狭くなります。袴はスカートのように末広がりになり、前時代のズボン状の形から一変します。
肩衣袴の袴紐は当初は別布ですが、江戸時代の裃の時代には共紐になり、腰の部分には腰板が付けられるようになります。
紋は当初から大紋、素襖と同じく胸と背と腰の部分とに付けられました。前時代には素襖のなごりで袴の横の投げの部分にも紋が付けられていたものもありましたが、江戸時代の裃の時代になりますと袴は後ろの腰板の部分にだけ付けられるようになります。
江戸時代の裃の時代になりますと柄は細かい単色の小紋になります。
小紋には将軍家の「松葉」、島津家の「大小霰」、鍋島家の「胡麻」、武田家の「武田菱」、加賀前田家の「菊菱」など、他の者が用いてはいけない留柄というものも出来ます。
その裃の文様が後に江戸小紋としてきものの柄に用いられるようになります。
江戸小紋という名称は昭和29年に文化保護委員会が江戸時代の技術をそのままを受け継いでいる小紋型染を、無形文化財に指定するときに多彩な小紋と区別するために「江戸小紋」と名付けました。
2011年11月3日木曜日
「江」の時代の肩衣袴に付いて
写真は「江」に出てくる男性の服装です。
武家の服装は室町期に整備され、江戸時代になりますと身分によって明確に服制が整備されます。
大礼時には将軍はAの公家の衣冠束帯を着装する時もあります。
二条城には大政奉還の模様が人形で展示されており,将軍は衣冠束帯を着装しています。
将軍は公家の衣冠束帯を着装することはありますが、武家社会の大礼においては3位以上はBの直垂(したたれ)を着用します。4位は狩衣(かりぎぬ)です。5位(諸太夫しょたゆう)は大紋(だいもん)でお目見以上は布衣(ほい)お目見え以下は素襖(すおう)です・
写真Bの背の所に絹の白い紐が付いています。それは袖の裏に各一か所づつ、胸に各一か所付けられています。
それを「きくとじ」といいます。
そして胸元には胸紐が付いています。直垂系統の服には「きくとじ」と胸紐が付けられているのが特徴です。
素襖の写真があります。「きくとじ」の付けられている背、胸、袖裏、袴の投げの部分、袴の腰の部分に紋が付けられています。大紋は素襖と全く同じ形で紋が付いていることも同じです。
異なるのは「きくとじ」が大紋は絹の紐ですが、素襖は革が付けられています。
袴の紐は大紋は白の別布が付けられていますが素襖は共布であるところが異なります。
大紋、素襖には紋が付いています。江戸時代になりますと小袖にも紋が付けられるようになるのですが、その紋付のルーツは大紋です。
直垂系の直垂、大紋、素襖の袖は一幅半の大袖です。写真Dでは素襖の袖が邪魔に成って肩で括っています。
お袖が大きくて邪魔になりますのでそのお袖を取っ払って出来たのが肩衣袴だと言われています。
「江」の時代になりますと直垂は大礼服として用いられるようになり、通常公服は肩衣袴が着用されるようになります。
2011年11月2日水曜日
下着重ね
現在でも礼装時には男女共に下着を重ねて着装します。
重ね着のルーツは十二単に起因します。小袖が衣服の中心になるのは安土桃山時代です。
当時の正式な着装は十二単の着装に倣って、一番下には肌着用の白の小袖を着て、中には十二単の五衣に倣って色物の小袖を着て、一番上には十二単の表着(うわぎ)のように柄物の小袖を着装しました。
写真は打掛を着装しています。打掛は武家の女子礼装ですから小袖も正式に白、色、柄物と三枚重ねて着ているのが分かると思います。
当時はまだ襦袢がありませんので白の小袖を肌着として着装していたのです。
襦袢が用いられるようになったのは元禄期頃からで、襦袢が着用されるようになってからも、肌着として用いてきた白小袖は省かれることなく、その白の小袖の下に襦袢を着用するようになりました。したがって江戸時代には高貴な人は下着を二領三領(りょう)重ねて着ていました。
それが時代の推移と共に簡略化が進み、昔は普段着でも富裕な人は重ね着をしていたのですが、現在は留袖の礼装時だけ下着を重ねて着るようになりました。
重ね着のルーツは十二単に起因します。小袖が衣服の中心になるのは安土桃山時代です。
当時の正式な着装は十二単の着装に倣って、一番下には肌着用の白の小袖を着て、中には十二単の五衣に倣って色物の小袖を着て、一番上には十二単の表着(うわぎ)のように柄物の小袖を着装しました。
写真は打掛を着装しています。打掛は武家の女子礼装ですから小袖も正式に白、色、柄物と三枚重ねて着ているのが分かると思います。
当時はまだ襦袢がありませんので白の小袖を肌着として着装していたのです。
襦袢が用いられるようになったのは元禄期頃からで、襦袢が着用されるようになってからも、肌着として用いてきた白小袖は省かれることなく、その白の小袖の下に襦袢を着用するようになりました。したがって江戸時代には高貴な人は下着を二領三領(りょう)重ねて着ていました。
それが時代の推移と共に簡略化が進み、昔は普段着でも富裕な人は重ね着をしていたのですが、現在は留袖の礼装時だけ下着を重ねて着るようになりました。
2011年11月1日火曜日
衣替え
衣更えは昔は更衣(こうい)と言い、公家社会では4月には夏物に、10月には夏物から冬物に衣服だ
けでなく家具調度品全てを更衣していました。
公家社会の更衣は、旧暦の4月には冬物から夏物に、10月(今の11月)からは夏装束~冬装束に更衣
していました。公家社会の装束には薄物(うすもの=夏物)と袷しかありません。
そこで春、秋の今で言う単の時期は下に着る小袖を使い分けして調整をして着装していました。
そういう公家社会の習慣がルーツとなって衣更えの習慣が広がって行きました。
江戸時代の後期の町人文化が花開いた時期には、・1月~2月は梅袷 ・3月~5月は春袷
・6月春単 ・7月~8月梅袷 ・9月秋単 ・10月~立冬秋袷 ・立冬~12月冬袷 以上の様に
季節に応じて衣替えをしていました。
その江戸時代の習慣が現在に引き継がれて、基本的には現在も上記の通りに衣替えをすることになっ
ています。
襦袢にも袷、単、薄物が有り、着物に合わせて着装することになっていますが、例えば5月はまだ
袷の時期ですが、関西では暑くなることがしばしばです。そういう時は中に切る襦袢やまた肌着で調
節をすればいいです。
5月の袷の時期は基本的には襦袢も着物に合わせて袷の襦袢を着るのが基本ですが、襦袢だけは先駆
けて単を着るようにする。また6月の単の時期には襦袢を先駆けて薄物にすればいいです。その場合
の半衿は、着物が基本ですっから冬物の半衿を付ける方がいいです。
色町の芸者が座敷に出るときに着る裾引きのきものを出の衣裳といいます。
稀にしかみませんが紗袷の訪問着をお持ちの方がいらっしゃいます。
紗合せは京都の色町の芸者が6月の単の時期にだけ着装していたのが、一般に伝わっていったもので
すから、紗合せは6月にしか着装しません。
けでなく家具調度品全てを更衣していました。
公家社会の更衣は、旧暦の4月には冬物から夏物に、10月(今の11月)からは夏装束~冬装束に更衣
していました。公家社会の装束には薄物(うすもの=夏物)と袷しかありません。
そこで春、秋の今で言う単の時期は下に着る小袖を使い分けして調整をして着装していました。
そういう公家社会の習慣がルーツとなって衣更えの習慣が広がって行きました。
江戸時代の後期の町人文化が花開いた時期には、・1月~2月は梅袷 ・3月~5月は春袷
・6月春単 ・7月~8月梅袷 ・9月秋単 ・10月~立冬秋袷 ・立冬~12月冬袷 以上の様に
季節に応じて衣替えをしていました。
その江戸時代の習慣が現在に引き継がれて、基本的には現在も上記の通りに衣替えをすることになっ
ています。
襦袢にも袷、単、薄物が有り、着物に合わせて着装することになっていますが、例えば5月はまだ
袷の時期ですが、関西では暑くなることがしばしばです。そういう時は中に切る襦袢やまた肌着で調
節をすればいいです。
5月の袷の時期は基本的には襦袢も着物に合わせて袷の襦袢を着るのが基本ですが、襦袢だけは先駆
けて単を着るようにする。また6月の単の時期には襦袢を先駆けて薄物にすればいいです。その場合
の半衿は、着物が基本ですっから冬物の半衿を付ける方がいいです。
色町の芸者が座敷に出るときに着る裾引きのきものを出の衣裳といいます。
稀にしかみませんが紗袷の訪問着をお持ちの方がいらっしゃいます。
紗合せは京都の色町の芸者が6月の単の時期にだけ着装していたのが、一般に伝わっていったもので
すから、紗合せは6月にしか着装しません。
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