2011年12月29日木曜日

おめでとう花嫁花婿さん




ネットで打掛を着せて欲しいのですが、やってもらえますかという電話を頂きました。
「はいやらせていただきますが」という話が今月のはじめにありました。
そして決定しましたからお願いしますという注文をいただきました。
何処で着ますかとお聞きしますと、神戸の相楽園で記念撮影をするということです。
園には着せる場所がありますかと問いますと、近くに神戸教育会館というところがあって、そこの集会場で着付てほしいということで行ってきました。
行くにあたってお名前をお聞きしたのですが、。その時に有吉さまとお聞きしたのですが、名刺交換もしないままで終えて帰ってきましたので、苗字しか分からず、苗字もこの字でよいのか分からないままアップさせて頂いています。
久しぶりに打掛を着せました。園で撮影するということですから、ポーズ付けのお手伝いをしてきました。
カメラマンもネットで探して来ていただいたそうです。綺麗なお庭で様々な景色をバックに撮影をしていました。こんなに様々な景色をバックに撮影ができれば、打掛を着た値打ちがあるなぁーと思いました。
最近は打掛を着ても鬘はつけないで洋髪のままで着る人も多くなりました。化粧も自分でされます。
いいですね。やはり打掛は豪華ですね。
最近はネットで衣裳も安く借りれます。そして式場で支度をしますと、男性は10000円位、打掛は化粧と鬘をかぶせてもらって着付けをすれば70000円位支度料が掛かります。
私は両方で15000円でさせて頂きました。
こういうやりかたもいいですね。
写真を見ていただければお分かりのように素敵な花嫁花婿さんでした。
「ありよし様」本当におめでとうございます。

2011年12月27日火曜日

消費税に付いて今年最後にもう一度怒ります

民主党というより今は野田総理ですね。
あなたは人臣を極めた人間なのに良識がないのかと言いたいです。
どの党が政権の座に付いても、今の日本の財政と将来を考えれば、消費税を上げなければ仕方がないでしょうと言っています。「どの党が政権の座に付いても」という言い方で、自分の行いを正当化し攻撃を避けようという言い回しです。
借金まみれの国の財政は総理から説明を受けなくても、私のような無学な爺でも分かっています。
だからといって、今消費税アップを言い出すのは筋違いではないでしょうか。
民主党は埋蔵金の話をちらつかせて、国民に美味しいことばかりを公約に掲げ政権を取りました。
その公約の大半は実現出来ていません。私たち国民は騙されたのです。
騙すつもりではなかったというなら、勉強不足も甚だしいということですね。
そんな失態を犯しておきながら、まだぬけぬけと公約に違反して消費税アップに手をつけようとしています。
今から議論を重ねて決定という運びになったとしても、実施は民主党の政権満了となってからのことだから、公約違反にはならないと言い出しています。そういうのは奸計の類なのです。
やらないと言ったかぎり、それに反して話を持ち出す場合は、その内容を明らかにして、国民に問わなけらばいけなでしょう。やりたければ解散をする、それが良識というものです。
我々国民は選挙でしか自分の意思をぶつける場がないのです。その国民の民意を裏切っておいて、政権を握ったら好きにしていいというなら何のための選挙ですか。
国民のための政治というのなら、こういう重大政策決定に関しては、選挙前に明らかにして民意を問うべきでしょう。
私は消費税アップに反対して言っているのではありません。民主党が消費税の話をもちだすことそのものが、筋違いですと言いたいのです。良識のある人間なら筋を通さなければいけないでしょう。
筋違いの行為を平然と行うことは国民無視の最たるものです。これには国民全体が怒らないかんでしょう。皆さんネットで怒りを叫びましょう。

2011年12月23日金曜日

心の道

西宮流のimamura様から、将棋の升田九段は、正座ができなくなり、将棋連盟(会長、大山康晴)に腰掛での対局の許可を申し出ましたが許されず「それじゃあ」と引退しました、ということを教えて頂きました。
また、「子どもに将棋を教える時、まず、礼儀作法から入り、最後も礼儀作法を復習します。将棋道ですね」とおっしゃっておられます。
日本のお稽古事の多くは道を重んじています。柔道も剣道もそうですが野球も球場に入るときに一礼をし、退出する時も一礼しています。それも道の一環ですね。
私も着付を教えている時は道を根本に据えていました。着装道と命名していましたが、装道きもの学院から着装道という言葉は商業登記をしてあるから使用するなという抗議を受け、着技道と訂正しました。
お稽古に来る人は道についてはあまり関心がなく、堅苦しいことは忌み嫌いがちです。
例えば、何で着付けと道が関係あるのか。それが理解できない人も少なくありません。
しかし、この理解は自己の人生にとっては大切なことです。
どんなものでも何故それを欲し行うのか。それは自己の人生に膨みをもたせ充実させるためです。
様々なものが存在しますが、それらは人生を充実させるための手段の一つ一つにしか過ぎないのであって、すべての手段の終極の目的は自己の人生の充実です。
これは真理であって、このことの理解が重要です。これが理解できないと、着付と道と何の関係があるのだという批判につながります。
人生の充実、幸せというのは心のあり方で決するものですから、心を高尚に豊かにしなければいけません。
様々な手段は心の豊かさに繋げなければ、お稽古をする意義が半減してしまいます。
心を豊かにするのは、技の道と合わせて、心も道も取り組むものを通して磨いていく。そういう理念の本に多くのお稽古事は道を唱えているのです。
こういう部分は日本の文化の良い点のひとつなのですが、最近は外人の方がその良さを認めて憧れる人が増えている反面、日本人は堅苦しさを嫌う傾向が強いようです。

2011年12月22日木曜日

下着に付いて

上図の清長と写楽の絵を見れば女性たちは幾枚も重ね着をしていることが、襟元や裾を見ればよくわかります。
 小袖中心の時代になるのは安土・桃山時代からです。
当時の小袖の正式な着装は平安時代の衣(きぬ)の重ね着を取り入れて、当時はまだ襦袢がありませんので一番下には肌着用として白の小袖を着て、その上に重袿(かさねうちき)に真似て色物の小袖を着て、表着(うわぎ)には柄物の小袖を着るというように三枚重ねが正式な着装法でした。
清長と写楽の絵は市井の女達を描いていますが、身分に関係なく富裕な人達は普段着・晴れ着に関係なく下着を重ねて着ています。
  和装の場合は襦袢と表着の間に重ねて着る小袖を下着と言って肌着とは区別しています。
襦袢が元禄時代くらいから着用されるようになります。襦袢が着用されるようになりますと、肌着として着用していた白の下小袖が襦袢に取って代わるのかといえば、そうではなく一番下の小袖の下に襦袢を重ねるようになります。従って上図のように3枚・4枚重なって着装するというようになります。
江戸時代には普段や礼盛装を問わず重ね着をするのが通常のきものの着方だったのですが、戦後洋服中心の時代になりますと和装は簡略化されて留袖以外は重ね着をしなくなりました。
中振袖や訪問着を着る時に襟だけを重ねる、重ね襟と言うものをつけます。あれは下着の名残で、下着の襟だけを昔のように重ねるということです。
昔は普段着・晴れ着関係なく付けましたので、重ね襟はどんな着物に重ねても間違いという事はありません。
但し下着は季節によって重ねたり重ねなかったりと調整をしましたので、春袷、秋袷の時期は重ね襟はしない方がいいですね。

2011年12月20日火曜日

正座について

三千院の釈迦三尊像

三千院の国宝の阿弥陀三尊の向かって右の観世音菩薩と左の勢至菩薩は合掌をして、跪坐の姿でおられます。仏像はほとんどが結跏趺坐(けっかふざ=座禅のときの足の組み方)の姿勢ですから、大変珍しいお姿です。
跪坐は今で言う正座から立ち上がろうとする時の姿勢ですから、正座という座り方は古代からあったことは事実のようです。三千院の観世音菩薩と勢至菩薩は「大和すわり」と言われていますので、座り方はあったようですが正座という言葉はなく、座り方も一般的でなかったのです。
江戸時代においても「正座」という言葉はなく、「かしこまる」や「つくばう」などと呼ばれていました。
正座は日本に古くからある座り方であると一般には思われていますが、その歴史は以外に新しく、座法の一つとなったのは千利休が「茶道」を完成させ正座を基本として定めてから後のことです。そして正座がさらに一般に普及したのは、明治以降のことで、正座の歴史は たった100年ほどなのです。
正座とは、元々、神道での神、仏教で仏像を拝む場合や、征夷大将軍にひれ伏す場合にのみとられた姿勢であった。日常の座法は武士、女性、茶人などでも胡座(あぐら)、立膝で座る事が普通であったのです。
平安装束に見られる十二単や神主の袍は、下半身の装束が大きく作られており、正座には不向きで、あぐらを組むことを前提に作られています。正座が始まったのは、室町時代に茶道(濃茶)の体系が確立する頃、狭い茶室に効率よく座る手法として武士社会を中心に浸透しました。
またこの頃には、建物が書院造となり畳が一般化してきたことも一因になったいるようです。
礼法というものは権力者階級から一般化していくというのが常道です。その権力者である武士の世界では、江戸時代初期に江戸幕府が小笠原流礼法を採用し、参勤交代で全国から集められた大名達が全員将軍に向かって正座をする事が決められました。それが各大名の領土へと広まったともいわれています。一般庶民に広く伝わるのは、明治になって学校教育で小笠原流が礼法師範として取り入れられてことがおおきなよういんであると言われています。
また江戸時代の中期以降は小袖の身幅が狭くなります。身丈も屋内では裾を引いて着装するように長くなり、あぐらや立膝座りでは醜いので正座が普及する一因にもなっています。

2011年12月17日土曜日

振袖の変遷

明治5年の衣服令によって礼服は洋服一辺倒になりました。明治16年に男子の紋付袴が略礼服として認められるようになりますが、その他の和服は公の儀礼の場から姿を消します。
洋服が公の場での公服となったために、和服の進展は見られず、江戸時代後期のものが模様や帯結びだけが多少変化して現在に至っているのが和服の現状です。
江戸時代の一般庶民の礼盛装は江戸褄に代表されるように裾模様が主でした。振袖においては江戸時代の後期には富裕な町人は支配者階級の振袖に倣って綸子地の総模様の振袖を着る人がいましたが、一般庶民の振袖の主流は裾模様です。
明治時代になって科学染料が普及し、型友禅なども普及したことによって振袖の模様は裾模様から総模様へと変化していきました。
大正時代の後半になりますと、洋画の影響を受けて振袖にも花卉を大きく大胆に描写する絵柄も出てきます。
  着物は時代の流行に合わせて袖たけを長くするとか、帯結びに変化を設ける以外にバリエーションのもたせ方がありません。昭和の50年代くらいからはそれまでは振袖時の帯結びは立て矢かふくら雀一辺倒であったものから、様々な変わり結びが結ばれるようになりました。
それは美容界の指導者や、きもの学院が普及してきて、人と違ったものを作り出して講習材料としなければネタがないというところから発生発展したものです。
因みに皇室の皆様は振袖をお召しになる時は古式に従ってふくら雀しか結ばれません。
古式はふくら雀ですから、結納の時に振袖をお召しになられる場合は、古式通にふくら雀に結んではいかがでしょうか。

2011年12月16日金曜日

帯結び

戦後経済復興を遂げてから一般の人たちの間でも花嫁衣裳に打掛姿が普及しました。
打掛は武家の礼服だったものですから、戦前は身分階級意識が根強く残っていましたので一般の人は身分を憚って打掛けは着ませんでした。
  花嫁衣裳は専ら黒の本振袖を着用していました。その振袖の帯結びは片方の肩から矢羽根のように斜めに形づくった立矢という帯結びです。
江戸時代から若い人は晴れ着の時は立矢に結びました。立矢は若い人の晴れ着用の帯結びとして定着していました。その立矢を斜めにしないで真横にして、真中の箱ダーツにしている部分をめがねというのですが、そのめがねの部分をお太鼓のようにしたのが「ふくら雀」です。
  上図のピアノを引いている絵は大正年間に描かれたもので、その絵からも分かるようにふくら雀が結ばれるようになるのは大正年間です。
ふくら雀が普及してからは黒の本振袖の時は立矢に結び、その他の振袖の時はふくら雀に結ぶことが定着しました。
戦後から暫くの間は振袖を着ればふくら雀に結ぶのが習わしになっていましたが、昭和の50年以降になりますと様々な創作結びが考案され、古式のふくら雀は結ばれることは少なくなりました。
きものの場合は帯結びにバリエーションをもたせる以外に趣向の凝らしようがありませんので、美容界やきもの着付け業界の手によって様々な変わり結びが創作され普及していきました。
帯結びはそういう経緯の本に結ばれていますので、礼盛装時はこの帯結ぶでなければいけないという約束事もありません。
皇室では振袖をお召しになられる時は古式に則ってふくら雀しか結ばれません。
そういう習慣に倣って一般の方も結納や御見合いの時などはふくら雀に結ばれては如何でしょうか。

2011年12月15日木曜日

有職文様

有職とは朝廷の礼儀、故実に精通している人のことを言います。
服飾も儀礼の一環で、平安時代に着ていた装束の文様を有職文様といいます。
格調の高い文様として礼服・礼装等の衣服のみならず、家具調度品の模様として広く用いられています。
 ・立涌=立涌(たてわく)は陽炎を図案化したものです。
     雲を配して雲立湧、花を配して花立涌、波を配し
     て波立涌などがあります。
・亀甲に花菱=図は亀甲に花菱を配したものです。      
亀甲は亀の甲羅を文様化したものです
中国の故実に「鶴は千年」「亀は万年」と
        あり、日本でも大変お目出度いものとして
        好まれています。
・向蝶=文様で向かい合っているものは沢山ありますが、
     向い蝶と揚羽蝶は有職文様で平安時代から好んで
     使われました。
蝶は毛虫~成虫蝶までの変態が自然の持つ不思議
     な再生、復活の力として古代の人々に力強く印象
     付け、また霊魂の象徴として種種の器物や織物の
     文様として用いられています。
・入子菱=入子菱(いりこびし)は菱文の一つで、中国か
      らきたものです。     
図は菱襷(ひしたすき)に二重三重の菱を入れ
      込んだものです。

有職文様は堅いイメージがありますので、着物の文様としてより礼装の帯の文様としてまた調度品の文様として多く用いられています。
有職文様は他にも沢山有ります。文様の謂われは中国の故実によるものがほとんどですが、それが日本人の美意識の根幹になっていますので、謂れを知ることは大変興味深いです。

2011年12月14日水曜日

伊達じめ

芸者が座敷に出る時に着る裾引きの着物を「出の衣裳」と言います。
裾引きを着る時は帯の下に着崩れを防ぐために一条という裂を帯の下に巻き付けます。
芸者の場合は赤の一条を巻いて、帯の上下に少し覗かせて着付の演出効果を高める着装をします。
その一条が博多織りの単帯に真似て、帯よりも薄く狭く、少し短いものを布の代わりに巻く付けるようになります。博多織で出来ていますので、如何にも帯が巻きつけられているように見えるところから、伊達に巻いているという意味から伊達巻きと呼ばれるようになったものと思われます。
今は前で紐のように結ぶ形になりましたので伊達締めと言っています。
この「伊達巻き」「伊達締め」と言う言葉は広辞苑にも解説されていません。
  Googleで伊達巻きと検索しますと、どこかのきもの学院が、伊達締めはきもの着付教室によって普及したように解説していますが、伊達締めは伊達巻きという形で着付教室が繁栄する以前から用いられています。
  伊達締めは本来は博多織の物ですが、着付学院が各々独自のオリジナルなものを考案して現在では写真のようにマジックで止める物、シャーアリングされている物などがあります。
 
  伊達締めは長襦袢の着崩れを少なくするため一本、着物の胸元が着崩れないように、そして同時におはし折りを整えて崩れないように一本、着装する時は2本の伊達締めを使います。
伊達締めは使用目的から考えますと、薄くてそれでいて紐状に寄ってしまわないで確りと幅を保った状態である物で、柔らかくて軽くて、結び目が大きくゴロつかないものがあれば最高です。これに異論を申し立てる人がいるとすれば着付けの知らない人です。
そういう観点からどういう伊達締めを選択すればよいかを考えますと、各きもの学院が商業的意図で様々なオリジナル商品を奨めていますが、昔から使われている博多織の伊達締めが一番使い良いと思います。
  何故博多織りの物が一番いいかは、確かな理由があるのですが、長くなりますので詳しくはここをクリックしてください。

2011年12月13日火曜日

吉祥文様

吉祥とは「よいしるし、めでたいしるし」という意味で、それを表現した文様を総称して吉祥文様と言います。本来は中国の信仰に基づくもので多種に渡っています。
 上図はその一部で、何故お目出度いのかという意味がそれぞれにありますのでご紹介をします。


・青海波=青海波(せいかいは)波文の一つで、青海勘七
が作ったものと言われています。
          中国では地図上に海を表すのに用います。
波文は他に遠波・さざ波・大波・荒波・波頭な
ど多くあります。   
広大で偉大な海の現象である波は吉祥とされて
います。
・松竹梅=歳寒三友とも言われます。     
松は中国では四季常に青く、寒い冬にも葉を改
めないところから、変わり易い人の心を戒める
ということで、松の常樹を貞徳になぞらえてい
ます。
        松の長命をことほぎ、さらにこれを人の長命
に結び付けて目出度い木とする考えが生れ
        鶴や亀との組み合わせがデザイン化されるよ
うになりました。
        松は神霊の依代(よりしろ)ひいては神霊そ
れ自体と見なされる霊木、神木と見なされ
      正月のしめ飾りなどに用いられています。
竹は四季緑を変えず、その成長と繁殖の目覚ま
しい活力、不思議な中空の幹の形態などによっ
て霊的なもの、神聖なものとみなされていまし
た。
        従って、神霊の依代として、また招代(おぎし
ろ)として現在でも欠くことの出来ないものと
して尊ばれています。
        中国では瑞鳥の鳳凰が桐の樹に宿り、竹の実を
食べて成長するという、いわば慶寿の植物とさ
れてきました。
       さらに節を正しく待するため、節操の正しいもの
の代表として梅・蘭・菊と共に四君子の一つに
数えられ、こうした考えが松・梅と結び付いて
松竹梅の観念を生み出して、広く一般に知られ
ています。

・梅=古来中国から渡って来た花で、万葉集には萩に次い
で梅が歌のテーマとされています。
      春の先駆けに梅を頭に飾ることは新しい年に希望を
かけるしるしとされて吉祥として扱われています。
また梅は厳冬に花を咲かせるのでお目出度いともさ
れています。

日本では松は平安時代に、竹は鎌倉時代に、梅は桃山時代に吉祥とされましたので、歴史の重い順で松竹梅という並びになっています。
  上図以外にも吉祥文様は沢山ありありますが、それぞれにいわれがあります。それは下記のHPに記してありますので、是非開いてご覧ください。

2011年12月12日月曜日

阿波踊りの女性の装い


阿波踊りの女性の井出は足は利休下駄に白足袋、裾は関東では蹴出しと言い、関西では裾除けという腰巻きを付けて、着物を短くたくしあげて着装し、襟には黒繻子の掛け襟をして黒繻子の帯を締めています。
江戸時代の文化文政期に「粋」という美意識が発生します。
この粋という美意識には享保の改革、寛政の改革と相次ぐ幕府の厳しい奢侈禁止令に対する町人の心意気が含まれています。
深川などの町芸者は高価な絹物の小袖に「こんなものはほんの普段着ですよ」とばかりに、小袖に黒の掛け襟をして心意気を装いで表しました。
襟は汚れやすいので汚れた場合には掛け襟だけを取り替えれるように掛けるものですが、それを絹物の贅沢なきものにも掛け襟をして心意気を表現したわけです。
その風俗が文化文政期に大流行をして礼装、晴れ着以外は黒襟をかけて着装するという装いが一般化しました。
時代劇を見ますと町人の女性は黒襟を掛けています。それと同じで阿波踊りの女性達も同じ装いをしています。
その装いは創作されたものではなく歴史を感じさせる装いです。

2011年12月11日日曜日

文様と装飾品のルーツ

古代には事ある毎に女は鬘(かつら=草花で髪を飾る)を巻きました。
上図は鬘を巻いた女性図です。
鬘は桂とも書きます。
頭に巻くターバン鉢巻のことです。この鉢巻のルーツは挿頭花(かんざし)です。
生の草花を身につけることによって、自然の草花の生命力を頂き、元気で幸せになるという生命触れ合いの信仰からきています。
人も自然の一部ですから自然と調和して、自然のサイクルと生命のサイクルが一致していれば健康で幸せになれるという信仰から、自然のものを身に付けて生命力を得ようとしました。
当初は生の植物を装身具にすることから発して、それがべっ甲、珊瑚、金銀にとってかわるようになり、植物は衣服の文様として用いられるようになりました。
和服の文様は健康で幸せになれるという信仰からはじまっていますので、全ての文様は吉祥につながっています。従って喪服と喪服の襦袢は無紋の無地の生地を使用することになっていますが、最近は色は白であれば地模様は全く関係がなく使用されています。それはこういう日本人の美意識を分かっておられない人が多いからです。
因みに花は最高の贈り物と言われています。それは上記のような意味が込められているからではないでしょうか。

2011年12月10日土曜日

現在着装時の帯の種類

A=丸帯 
一枚の裂地で作られているので模様が丸に通っているの
  でそのように言う。帯は丸帯が帯本来のもので、丸帯は
  見えないところまで織物になっているので製作費がい。
  そして堅くて結び難いので丸帯に代わる格式を有した帯
  として袋帯が出来る。
 
 B=袋帯 
今の袋帯は表と裏を張り合わせて端をかがるか縫い合
   わせて作っていますが、当初の袋帯は袋状に織られて
   いたのでこの名がある。「細雪」の小説の中に出てく
   るので昭和の初め頃につくられたものと思います。出
   来たのは昭和の初期ごろと思われますが実際に丸帯に
   代わる礼装用の帯として使われ出したのは戦後のこと
   です。
当社は留袖、振袖用のものしかなかったのですが、現
   在では盛装または紬の物も制作されています。
礼装用は白地、金地、銀地の織物で模様は有職か吉祥
   文様に限られていましたが、最近はそういう約束事が
   崩れてきています。
 
 C・D=九寸名古屋帯
江戸時代末期からお太鼓結びが流行り出し明治に
     なりますと若い人の礼装時以外はお太鼓結び一辺
     倒になります。
江戸時代には町人は贅沢な織物の帯の使用は禁止されていましたので、G図にあるような腹合わせ帯を締めていました。腹合わせ帯は丸帯の長さがありますので結ぶ時は二重太鼓になります。
そこでもっと簡単にお太鼓結びが結べるようにということで、大正年間に名古屋の女学校の先生がお太鼓結び専用の帯を創作しました。それが名古屋帯で名古屋の先生が創作しましたのでその名があります。名古屋帯は略装帯ですから礼盛装には使用できません。
 
 F=八寸名古屋帯
名古屋帯本来の形は九寸名古屋ですが、九寸名古屋は中
  に芯を入れて仕立てます。それをもっと簡単に仕立てて
  使えるように考案されたのが八寸名古屋帯です。九寸は
  仕立てる前の幅が九寸あり、仕立てると八寸の幅になり
  ます。八寸は芯を入れませんので始めから八寸の幅にな
  っていますのでそのように呼ばれています。
 
 G=半幅帯
普段着用として使用する帯です。単と小袋の二種あり
   ます。浴衣には専ら単の半幅を用いますが小袋でも間
   違いではありません。小袋は昔は羽織したと呼ばれて
   いました。
 
 H=腹合わせ帯
腹合わせ帯です。江戸時代は町人は贅沢な織物は使用
   禁止でしたので専ら腹合わせ帯を使用していました。
   晴れ着も普段着も腹合わせ帯でしたので、そういう事
   から名古屋帯には染の帯もありますが、染は柔らか物
   の着物にも使用できる事になっています。図Eはその
   染の九寸です。
 I=角帯
角帯は男性の帯です。男性の帯にも礼盛装用と街着・
   普段用とあります。写真の角帯は博多の角帯ですが博 
   多は街着・普段用です。
 

2011年12月9日金曜日

きものと帯の調和・格式の統一

着物と帯を組み合わせる時には・格式の統一 ・材質の統一・色の調和 ・柄の調和の四点を考えなければいけません。
専門的ですが最近は着物の約束事を御存知でない方が多くなってきていますので詳しく記します。
格式の統一と材質の統一は約束事ですから着物をお召しになる方は知っておかなければいけません。
(きもの)                
・留袖=礼装(最も重大な儀礼の時に着る)
・訪問着=盛装(重要なパーティーの時に着る社交服)
・色無地=盛装(神仏詣で等の通過儀礼に最適)
・付下=盛装(訪問着に準じて着る。訪問着を簡略化した
ものだから正式な社交服ではない))
・染のきもの=外出着(お礼や御見舞などの儀礼の意味で
他家を訪問する時に着る)
・紬のきもの=街着(買い物などの少し改まった時のお洒
落着)
・木綿・ウール=普段着(普段に着るきもの。街着として
も使える)
(帯)
A:丸帯
B;礼装用袋帯
C:織物の洒落袋帯
D:紬の洒落袋帯
E:織物の九寸名古屋帯
F:織物の八寸名古屋帯
G:紬の九寸名古屋帯
H:紬の八寸名古屋帯
I:染の九寸名古屋
J:半幅帯

着物には礼装・盛装・外出着・街着・普段着という格式があります。
帯にも丸帯から始まって次第に簡略化されて格式が生じていますので、着装する時はきものと帯の格式を合わせるというのが格式の統一です。

*礼装=留袖・色留袖・本振袖~着装時は丸帯または丸帯
に準じる礼装用の袋帯を使用します。但し本振袖は丸帯です。丸帯は現在は礼装用の物しかないというのが現状ですから丸帯に関しては問題ありませんが袋帯の選択です。礼装用の袋帯と言うのは文様は有職・吉祥文様で地色は白地・金地・銀地のものが最適です。

*盛装=訪問着・色無地・付下=丸帯・礼装用の袋帯・洒
落袋帯です。洒落袋帯は文様や地色に拘らずに作られた織物の帯です。丸帯・礼装用の帯と記しましたが格式の上のものを下に組み合わせて使用するのは正当です。但し逆はいけません。

*その他=洒落袋帯か名古屋帯です。洒落袋帯と名古屋帯
には織物と紬のものがありますので材質の調和のところで記します。

2011年12月8日木曜日

きものと帯びの調和・材質の統一

絹地の物には生糸と使用したものと副蚕糸を使用したものがあります。
絹は繭球から糸を繰り出して生糸にします。
繭球には蛹(さなぎ)が2-3匹入っている繭もあります。そういう繭から取れる糸を玉糸といいます。
繭は途中で糸がもつれて繰り出せないものや、最後まで糸を繰り出せない物があります。そういうのを加工して綿状にしたものが真綿です。その真綿から糸を繰り出した物が本真綿紬糸です。
加工をしている間にどうしても屑繭が何&か出来ます。それを木綿のように紡績加工して糸にしたのが絹紡糸です。絹100%と表示をしてありましても絹紡糸(けんぼうし)が使用されているものは直ぐに腰が無くなりますので要注意です。
玉糸、真綿糸。絹紡糸を総称して副蚕糸と言います。
因みに麻のように茎から糸を作ることを績む(うむ)と言い、木綿のように綿状のものを糸にするのを紡績といい、絹は製糸と言います。

昔は礼服・礼装・晴れ着・よそ行き着は羽二重・綸子・縮緬地を使用し染めや繍(ぬい)が施されていました。それらの織物は全て生糸を使用して織られていますので、生糸を使用して制作された後染物の着物が格式は上とされています。儀礼の意味を込めて着用する着物は後染めの着物と言う約束事になっています。但し、先染めの着物でお召しというきものがあります。この着物は先染め物ですが経・緯共に生糸を使用していますので儀礼用として着用出来ます。

着物と帯には生糸を使用してつくられたものと、副蚕糸を使用して作られたものがありますので、生糸を使用してある染の着物には生糸を使用して織った帯を合わせる。
紬の着物は副蚕糸を使用していますので、帯も副蚕糸を使用して織った帯を合わせるというのが材質の統一です。
但し例外が一つあります。生糸を使用して作られた染物の帯は染のきもの、先染めの着物の両方に使えます。これは昔に礼盛装普段着を問わず腹合わせ帯を使用したことにより由来します。

小紋や紬のきものをお召しになる時は、色の調和や柄の調和だけの好みで組み合わせては行けないという事です。

2011年12月7日水曜日

帯びと着物の色合せ

色目と言うのは遠目でもはっきりと分かりますので良く似合う色を選択するのは大切です。
思わぬ色の組み合わせが素敵で装いの効果を高めるということはあります。
  色目に付いては別に約束事はありませんので組み合わせは自由ですが、垢ぬけて見える色合わせがありますのでご紹介します。
 (1)
着物と帯の地色を同系色の濃淡で合わせる組み合わせです。
(2)
きものの柄色の方が目立ちますので、着物の柄色の一番目立っている色目に、帯の地色を合わせるか、同系色の濃淡で合わせる組み合わせです。
上図の写真の訪問着姿の左は裾が濃いグレーの色を使用していますので、帯は其の色に合わせたコーディーネートをしています。
右の写真も同じく着物の柄色は金色ですから帯も金色地に合わせてあります。
スッキリと垢ぬけした色合わせになっていると思いますが如何でしょうか。
(3)
昔は濃い色の着物には薄い色の帯を合わせる。
薄い色の着物には濃い色の帯を合わせるという色合わせをする人が多かったのですが、きつい色合わせですから最近はきつい色合わせを避ける人が増えています。
 これを参考にして頂ければ結構垢ぬけた色合わせになります。
 
 *柄の調和
これも約束事はありませんので自由ですが、花鳥風月は花鳥風月同志のはんなりとした雰囲気で組み合わせる、幾何学模様は幾何学模様同志の組み合わせがスッキリします。
縞模様の着物にには人形柄や置き物などの道具柄などがよく合います。
 吉祥文様には有職文様を組み合わせると重厚な組み合わせになります。

2011年12月6日火曜日

重ね色目

平安時代の礼装である十二単は白の小袖の上に袴をつけます
その上に単衣、五ツ衣、打衣、表着、唐衣、裳 を着用します。
一番下に着用する単衣は一番大きく仕立てられています。
そして五つ衣、打衣、表着と上に着用する衣ほど裄と身丈が次第に短くなるように仕立てられています。
裏は襟、襟先、立褄、裾、袖口に1cmほどふき出しに仕立てられていますので、着装した時はその部分の色の重なりが見えるように出来ています。
着装した時は色の重なりが華やかに艶やかに目に映るようにして、色の重なりを楽しんだわけです。
それを重ね色目といいます。
 松重、梅重、藤重というように季節に合わせて様々な重ね色目を楽しみました。
この素晴らしい重ね色目の感覚は、現在でも着物を染める時に地色に対して柄色を何色にするかという時に参考にされています。
 季節に応じて様々な重ね色目を楽しんだのですが、重ね方の一つに「薄洋」「匂い」というのがあります。薄様(うすよう)はさいごを白色に重ねるもので「匂い」は上から順に薄く重ねる色重ねを言います。
 そんなところから匂いは色の重なりを示す言葉として使用されています。
 

2011年12月5日月曜日

礼服と礼装

明治新政府が開府されてそれまでの武家の服制は全て廃止となります。
公家社会の服制も天皇家の諸行事用の服として残存しますが公の場では着用される事はなくなり、明治5年の衣服令によって服制が制定されます。
その結果明治15年に紋付羽織袴が通常礼服として復活しますが、それ以外は和服は全て廃されて洋服一辺倒になります。
  礼服には大礼服と通常礼服があり、武官着用のものと文官着用の衣服が制定されます。
戦後になって明治に制定された服制は改正されます。
戦前はフロックコートは文官の通常礼服でしたが、フロックコートは廃止され、その代わりとして本来は午前中にだけ着るものであったモーニングが通常礼服として用いられるようになります。
現在は第一礼服は燕尾服で第二礼服はモーニングになっています。盛装はタキシードです。
女性は第一礼服はロプ・デコルテです。昼はロプ・モンタントです。
盛装はアフターヌンドレス(昼)・イブニングドレス(夜)・カクテルドレス(夕方~夜)です。
  礼服と言うのは朝廷並びに政府における重大な儀礼時に着用する衣服ということです。
現在は朝廷における儀礼というのは一般人にはありませんので、政府主催の重大な儀礼の場で着用する衣服ということになります。
皇室の皆様は公の場には必ず洋装で出席さら和服は一切着用なさいません。それは明治に定められた衣服令に則って装いをされておられるからです。
明治を迎えて官職に就いていない一般の人は公の場に出ることはありません。しかし一般人にも重大な通過儀礼があります。その重大な儀礼の場には前時代の最高の衣服であった紋付の裾模様を儀式用として着用しました。
それが現在の留袖です。
礼装と言う言葉には礼服を着用した姿という意味と、儀式に最も相応しい衣服という意味があります。
 留袖は後者で儀式に最も相応しい最上の服ですから礼装もしくは正装と言われています。

2011年12月4日日曜日

着物は昔も高級品

中国では絹織物を錦(にしき)と言います。
旁の帛(はく)は絹のことで、絹=金と同様に貴重なものであるというところから錦と言われています。
今は機械が発達して機械で簡単に織り上げることができますので、生地代よりもその後の加工の如何によって着物の値段は設定されていますが、全て手仕事で有った時は一反の反物を織り上げるのに想像を絶する手間が掛かりました。
現在では紬や木綿物や帯類には手織りのものがありますが、染着尺の生地は全て機械で織っています。
  それが昔はどんな織物も全て手織りなのですから高価な筈です。
堺屋太一さんがお書きになられた播磨灘物語の著書には呉服屋での一シーンが描かれていて、一反15両~20両という値段が書かれています。10両盗めば死罪と言う時代ですから如何に高価であったかということです。

  江戸時代にはふんどしのレンタルがあったのを皆さんはご存じでしょうか。今で言えばショーツをレンタルしているのです。
ふんどしはたいてい晒しで出来ています。その晒しさえも大変高価だったのです。買えば250文くらいしたそうですがレンタルですと60文くらいですみ、きれいに洗濯して湯のしをして貸してくれますので、利用する者が多かったそうです。
私などは記憶にありますが、浴衣も高価ですから、ひと夏終われば洗ってのし板に張り付けて乾かして、新しく縫い直していました。高価でしたからそれだけ大切にしたのです。
そして浴衣として着れなくなると寝巻にして、そして破れて寝巻きにもならなくなれば、次はおむつにしていました。おむつにもならなければ次は雑巾にして使っていました。
上記の段模様と片身替わり模様というのがあります。
桃山時代から文様の意匠としてよく使われています。
 この文様は着物は高価ですから破れてしまっても、捨ててしまうのは勿体ないので、継ぎ接ぎにしてもう一度長着として用いたことから発生した意匠です。
きものは長着として使われなくなれば掛け布団の表に使用したり、ねんねこにしたりと徹底的に再利用をしましたので、着物は現物としての資料がすくないのです。
昔のように徹底して再利用すれば、それこそエコになり節約になると思うのですが、それでは経済がよけいに低迷してしまうかもしれませんね。どちらを選択すれば全体がうまくいくのでしょうかね。

2011年12月3日土曜日

七五三

11月15日は七五三です。
七五三は古来の髪置き(かみおき)袴着(はかまぎ)、帯解き(おびとき)の祝いを11月15日にまとめて行うようになったものです。
 
 ・髪置き
昔は2~3歳までは頭を剃っており、3歳になって初めて髪を伸ばす儀式があります。
それを髪置きまたは櫛置き(くしおき)といいます。
髪は生命の象徴ですから大切な儀式です。
 
 ・袴着
禁中・堂上では男女共に袴をはきますので、5歳7歳になると男子は紐直、女子は帯解きと言って付け紐を外して初めて袴をはく祝いをします。武家は女子は袴をはきませんので帯解きの祝いになり、男子だけが袴着を行ったものが一般に伝承されてきました。
 
 ・帯解き
付け紐をはずし帯を締め始める祝いです。これは現在は十三参りの時に行います。
女子の十三参りは別名本身の祝いとも言われています。
 この時から本身の長着を肩上げして着ます。
 
  こういう宮中の行事を武家も公家に倣って行うようになり、徳川綱吉の子の徳松が11月15日に行ったことが武家全般に広がり、一般庶民も行うようになったものです。
 この祝いは昔は嬰児、幼児の死亡率が高かったために無事に今日までこれたこと、そしてこれからも無事に成長することを念じて氏神に祈りを捧げる儀式です。
 
  最近は写真館ができて写真館で支度をして戴く人が増えています。
それは合理的でいいのですが、親御さんの中には写真館で記念撮影をしただけで終わりという人もいます。
 それはいかんでしょう。
七五三は記念撮影をするのがメインではなく、氏神さんにお詣りをすることが目的です。
前回も書きましたが最近は何のための儀式なのか、何故それが大切なのかわかっていない人が増えているのが残念です。

2011年12月2日金曜日

宮詣り

上図の産着はお客様の所に着せつけに伺った時に、今となっては大変貴重なものですから写真を取らせて頂きました。
紋の上から五色の糸で真っ直ぐ下に縫った糸と、左の方向に分かれて縫ってある二股の糸があるのが確認して頂けるとおもいます。
二股に分かれている斜めの糸の端は赤ちゃんにつながている方で、真っ直ぐに縫われている端は神様につながっています。
男の子は左斜め方向に縫い、女の子は右斜め方向に縫うことになっています。
これは赤ちゃんが災難にあったときは、その糸を神様が引っ張って助けてくれるという謂れから、昔は男女共に産着には必ず守り糸を縫いつけました。
  男の子と女の子の縫い方は異なっていて、女の子は男の子と逆に五色の糸を表に現れるように縫いつけます。その糸の先につながっている神様は氏神です。
最近はそういう謂れを御存知ない人が多くなっています。売る方の呉服屋も知らないので守り糸の謂れは廃ってきています。
  宮参りは無事に子供が生まれたことに感謝し、子供のこれからの無事を祈念する儀礼です。
男の子は生まれて31日目に、女の子は33日目に産土神(うぶすなかみ=氏神)に初めて参拝するもので、産土詣り(うぶすなまいり)とも言います。
男の子は逞しく生育することを願って、富士山や鷹などの絵柄を染めた産着を着ます。
女の子はこれから美しく咲きほこって成長して行く、春の花卉の絵柄を染めたものを着ます。
大変繊細な日本人の美意識がこういうところに現われています。
最近は産土詣りを無視して有名な神社に参拝される人が多くなっています。
何かあった時には最も赤ちゃんに身近な氏神様が守ってくれるのですから、氏神様に参拝をしなければ意味がないのです。。
神様が守ってくれるなんて迷信で何処に行っても一緒だというのであれば、初めから宮詣りなどはしなければよいのです。
  本当に赤ちゃんのことを心配して神頼みをするのであれば、宮詣りの原点に戻って産土神に参拝しなければ神頼みにはならないのです。

2011年12月1日木曜日

長着用高級生地

長着というのは大人用の本身の着物の事です。
長着用の高級白生地といえば羽二重、綸子、縮緬がその代表です。
 ・羽二重=
平織り組織ですが、筬(おさ)といって経糸を整理するものがあります。その筬に経糸を二本入れて整経して、経糸に緯糸を交互にくぐらせて織りますのでその名前があます。
上品な光沢のある柔かい織物です。男子の高級衣料の紋付はこの羽二重が用いられます。
 
 ・綸子=
上図左の地模様のあるのが綸子です。
紋織は経糸何本かに対して緯糸を一本くぐらせるというように織って、糸の交錯を不均衡にして経糸と緯糸の浮き沈みで模様を織り出すものです。
繻子組織といいますが、今はコンピューターでジャガードが簡単にできます。
ジャガードというのは紋紙に穴を空けて経糸を自動的に上げ下げされるものです。
これが出来るまでは柱の梁の上に乗って腹這いになって、人が経糸を上げ下げさせて織りました。従って、機の前に座っている人より梁の上で経糸を上げ下げする人の方が上級者であったのです。そんな大変な工程で織ったものですから、大変な高級品で支配者階級の上級者しか用いることができませんでした。
 ・縮緬=
緯糸に糊を付けて1mに対して3500~5000mの撚りを掛けて強撚糸に仕上げます。撚糸には右撚糸と左撚糸があり、それを交互に、即ち平織りに織った織物です。平織りですから朱子織よりも手間が掛からなかったのでその分安くなり、町人の礼装はこの縮緬が主になりました。
縮緬は撚糸を使用していますので幅は縮ます。幅は広く織って整理して普通の反物の幅にします。
整理すると撚糸によって畝が表面に出来ます。それが縮緬の特徴です。
 
  封建社会では男尊女卑ですから、男性が用いる羽二重が最上級で、次いで高級な綸子が次位で、支配者階級の下級者や一般庶民は専ら縮緬を用いました。そんなところから、一位に羽二重、二位に綸子、三位に縮緬というように白生地にも昔は格式が存在していました。
高級織物は綸子を用いられることが多く、帯揚げも同様で礼盛装、染物の着物には綸子の帯揚げを用いるという約束事がありました。
礼盛装、柔らか物を着用した時は帯揚げは必ず綸子の帯揚げと決まっていたのですが、最近はそういう事を知っている人は少なくなり色さえあえば何でもありになっています

2011年11月30日水曜日

絹に付いて

絹は中国では紀元前2000年の殷の時代から用いられていました。
 中国では絹織物のことを錦(にしき)と言います。
 帛(はく)は絹のことで金=帛で、絹はお金と同じぐらいに尊いものでした。貴重なものですから国外への持ち出しは禁止していたのですが、坊主などの手によってシルクロードを経てイタリア、フランスに持ち出されて西欧においても絹織物が発達しました。
  日本でも絹の伝来は早くて垂仁天皇(紀元前28年)には任那の国王に赤絹百疋を持参させたと日本書紀にあります。
  麻のように茎の繊維から糸にすることを績(う)むと言います。木綿のように綿状のものを糸にするのを紡績といいます。絹は繭玉から直接に糸を繰り出しますので製糸と言います。
・繭玉の周期
(1)卵から
(2)毛蚕(けご)になり、眠期と齢期を四回繰り返しま
    す。その期間は25~30日で五齢期に入って繭をつく
    ります。
(3)繭が完成するとその中で幼虫期最後の脱皮をして蛹
   (さなぎ)になります。
(4)その後12~13日で蛾(が)に変態します。蛾になる
    と口から体液を出して繭層の一部を溶かして外に出
    てきます
(5)外に出てくると交尾して卵を産み一週間後に短い生
    涯を終えます
 
 (3)の蛹が蛾になる前に殺蛹(さつよう)して乾繭(かんけん)といって繭を乾燥させて貯蔵します。
 糸を製する時は繭を煮ながら糸を繰り出します。一つの繭から取れる糸の太さは2.5~3.5デニールという細いものです。糸の長さは1200m前後の長さがあります。
白生地などを織る時には大変長い状態で織りあげて、反物(12m),四丈物(16m)、疋物というようにカットして商品にします。
  一つの繭から取れる糸の太さは細いので五個、七個、九個の繭から一本の糸を作ります。作られた糸が生糸です。専門的には15中、21中などと言います。中というのは糸の太さのことで、一つの繭の糸の太さは約3デニールですから21中は七個の繭から一本の生糸にしたという意味です。

2011年11月29日火曜日

絹糸

絹糸は
(1)生糸=繭玉から糸を繰り出した糸
(2)玉糸=蛹(さなぎ)が2匹以上入っている繭から糸
    を繰り出した糸です。28~250デニールと太さ
    がまちまちで、その上に節があるので染物には不向
    きですから裏地、帯、紬の着尺地などに使用されま
    す
(3)真綿紬糸=繭の中には蛾(が)が穴を空けた繭、傷
    や汚れた繭、糸口の見つからない繭、途中でもつれ
    て糸繰りの出来ない繭、また繭は最後まで糸くりが
    出来なくて必ず10%くらい薄皮繭ができます。
そういうのを特殊加工で真綿にします。真綿にした
    ものを紡いで糸にしたものが真綿紬糸です。これは
    連続糸ですから軽くて丈夫です。
(4)絹紡糸=「けんぼうし」と読みます。これは屑繭を
    木綿のように紡績加工をして糸にしたものです。
素材は絹ですが、絹独特の光沢、こし、また丈夫さ
    に欠ける糸です。

  生糸以外は副蚕糸(ふくさんし)と言います。
例えばデパートで以前はワゴンに乗った安い反物が目玉商品として販売されていました。
今でも店頭に安い目玉商品を展示している所があります。それらは絹100%の商標が付けられていますが、絹紡糸100%s使用のものや、何十%か絹紡糸が含まれている商品がほとんどです。
きものを着るときに伊達締めという10cm位の幅のある紐条のものを2本使用します。
  その伊達締めには各学院オリジナルの物が沢山ありますが、昔からの博多織りの伊達締めが一番理に適って使い良いものです。
  その伊達締めは最近京都で織った京筑というものが出回っています。それには絹紡糸が使用されています。見た目は博多織りのものよりも奇麗ですが、使って糊が落ちてしまいますと腰が無くなり紐状に幅が寄ってしまい扱い難くなります。
同じ絹100%でも絹紡糸はこしや強度がなく木綿と変わらないもので、私に言わせれば粗悪品です。
 同じ絹100%と表示していましても全く異なりますので、生活の知恵として知っておいて頂きたいとおもいます。

2011年11月28日月曜日

留袖は本来は振りのないお袖の意味

上図左の小袖には振りがあり、右の小袖には振りがありません。
 小袖、即ちきもののお袖は右図のように当初は全て振りが無かったのです。
阿国歌舞伎に代表される遊芸の女達は、踊りの演出効果を高めるために子供の脇明きのあるお袖にヒントを得て、振りのある小袖を着るようになります。
いずれの時代においても芸人達が流行を生み出す源となるのは同じで、芸人達の華やかな小袖の形が一般の人達にも広がって行き、若いミスの人達の晴れ着は振袖仕立てにするのが一般化されていきます。しかし、振袖を着るのはミスの間だけで結婚をすれば振りの無い留袖仕立てにするというのが習わしでした。
そういうことから留袖仕立ての着物はミセスの象徴だったのです。
 その留袖仕立を代表する着物は紋付の裾模様のきものですから、ミセスを象徴する代表のきものということで、江戸褄をいつの時代からか留袖と称するようになりました。
風俗書などには留袖という呼称の小袖は無く、あくまでもお袖の形を表す言葉としてしか使われていません。
  私達の若い頃は喫茶店に入って注文をする時は「温かいコーヒーをくださ」「冷たいコーヒーをください」と言っていました。それが何時からか「ホットコーヒーください」というようになりました。そしてついには「ホット」と言えば温かいコーヒーの意味として何処に行って通用するようになりました。
ホットな飲み物は他にいくらでもありますが、ホットはコーヒーの代名詞になりました。それと同じように戦後になってから、紋付の裾模様と言わなくても留袖で通用するようになりました。それはミセスが着用する代表の着物だからです。
  因みに何故留袖が無くなったのか。
時代の推移と共に袖丈が次第に長くなります、そして享保年間(1716年~)になりますと帯幅も広くなってきたことによって、着装がし難いことから既婚者のお袖にも振りが付けられるようになります。浮世絵などを見ますと江戸の中期には振りのある小袖、無い小袖と新旧の形が混在している様子が描かれています。
大奥の女性たちは市井の流行に関係なく留袖で通しました。

2011年11月27日日曜日

色無地のきもの

大奥の職員は将軍と御台所に拝謁の出来るお目見(おめみえ)以上と、拝謁の出来ないお目見以下とに区別されています。
 
 <お目見以上>
・上﨟(じょうろう)=御台所のお側に勤め典礼、学芸の
             お相手になった。
              最上級者ですが表向きには口を
            出さない役。
・御年寄(おとしより)=老女とも局とも言った。大奥の
             一切を切り回し最大の権力者。
                        篤姫のドラマでは滝山がその役
             職でした。
・お客会釈(おきゃくあしらえ)=将軍の大奥入りやご家
                  門の来訪時の接待係
・中年寄(ちゅうとしより)=年寄りの助役
・中﨟(ちゅうろう)=将軍の側室。将軍が見染めても直
            ぐに枕席にはべらせるというこは
             できなかった。上級者に預けら
           れて教育を受けてからでないと寝屋
           には行けなかった。多くの場合は御
            年寄のとりなしで中﨟になった。
            そのために権力争いが生じた。
・お小姓(おこしょう)=御台所の遊び相手
・お錠口詰(おじょうぐちつめ)=表御殿と大奥の境目を
            守り、将軍の大奥入りをいち速く
            伝えた。
    
お目見以上の役職にはその他に10以上ありますが奥女中の上級者はお錠口詰ぐらいまでです。
 中﨟以上は一生奉公で親の死に目に会うために帰宅できる程度です。
上級者の礼装は打掛け姿ですが、その打掛けは中﨟以上は綸子の縫模様です。映画テレビではピカピカの織物の打掛けを着ていますが、あれは嘘です。予算の関係でそうしています。
打掛けの下に着ている服を間着(あいぎ)と言います。
 上図の写真を見て頂きますと無地のものを着ています。中﨟以上は紋縮緬と言いまして、地模様のある五定紋か三定紋の無地のきものを着ています。上級者は綸子で下級者は縮緬です
  私達の一生には様々な通過儀礼があります。宮詣り、七五三、十三詣り、成人式、結納、入卒式典などは全て厳粛な式典です。その厳粛な式典に訪問着では華やか過ぎて厳粛な雰囲気に不釣り合いである。
  もっと雰囲気に相応しい正装が欲しいということで、江戸時代に礼装として着用されていた間着を準礼装として採用して用い始めたのが色無地です。従って、色無地は地模様があって紋付になっているものが正式です。
 この色無地は戦後の経済復興に伴って準礼装として一般化されたおきものです。
 江戸小紋は細かい柄の一色染めで、着装すれば色無地の趣がありますので、江戸小紋に紋を付ければ色無地として着用してもよいということになりました。

2011年11月26日土曜日

金箔

織物をゴージャスなムードにするために、特に帯には盛んに金箔が用いられます。
金箔は金から作られるのですが1gの金を引き延ばしますと畳1畳くらいの大きさになります。
帯の場合はそれを1~2mm幅のこまかい糸状に切りそろえます。
切り揃えた金箔をそのまま緯糸と一緒に織り込む方法と上図のように糸に金を巻きつけたもの、引箔と言いますがその糸を使用したものとあります。
上図Aは箔をそのまま織り込んだもので金色の光が強くなります。Bは引箔を使用したもので金色が上品な押さえられた織色になります。
金箔は着物の模様の加工にも用いられます。
箔置きと言うのですが金箔を糊の中で練り込んだものと、模様に糊を置いてから粉の金箔撒いて余分な箔を掃き落とすやりかたとあります。
 高級品には後の技法が用いられることが多いです。

2011年11月25日金曜日

名古屋帯の起源

Dの写真の帯は名古屋帯と言います。
江戸時代の初期にロープ状の名護屋帯というものが一時流行しましたが、江戸時代の初期には廃れてしまい、帯は裂地(きれち)か布地に芯を入れたものが主流になりました。
因みに裂地というのは絹という意味で、布は麻とか木綿を意味します。
小袖(今のきもの)が中心の時代になるのは安土桃山時代からです。
小袖が中心の時代というのは貴賤を問わず普段は小袖姿で過ごすようになるという意味です。
その当初の帯の幅は2-3寸の細いものでした。
帯の幅が現在のように八寸位になるのは江戸の中期以降です。帯の幅が広くなったことによって帯によって上下に文様が分断されますので、小袖の模様が全体柄から肩裾模様に変化していきます。
そして帯は一般庶民は奢侈禁止令によって贅沢な織物を使用することを禁止されていましたので、専ら染めの丸帯か腹合わせ帯を使用してました。
Aは丸帯ですが、丸帯は一枚の布に芯を入れて仕立てたもので模様が全体に丸に通っているところから丸帯と言われています。
Cは腹合わせといいます。腹合合わせ帯は表と裏に異なった布を使用して芯を入れて仕立てたものです。
時代劇でよく見かける裏に黒繻子を使用し、表には文様のあるものを使用した腹合わせ帯は、昼夜帯と呼ばれていました。
帯結びはミス向き、ミス・ミセス共有の帯結びが結ばれ、武家風町人風と江戸の後期になりますと様々に結ばれていました。
文政6年(1823年)に東京の江東区にある亀戸天神(かめいどてんじん)のお太鼓橋の渡り初め式に、巽芸者と呼ばれていた深川の芸者衆が、男結びの一枚カルタに帯枕を入れて膨らませた帯結びをして渡り初めに華を添えました。その帯結びは太鼓橋に因んでお太鼓結びと命名されました。
当時はこれが江戸で一番新しい洒落た帯結びであるということで全国に広がっていきました。そして明治時代になりますと老若を問わず、帯結びはお太鼓結び一辺倒になっていきます。
それまでに結んでいた帯は腹合わせ帯が主流でした。腹合わせ帯は長さが1丈5寸~1尺くらいあります。それでお太鼓結びを結びますと二重太鼓になってしまいます。それを一重で簡単にお太鼓が結べるように、大正年間になって名古屋の女学校の先生がお太鼓結び専用の帯を考案しました。それが現在の名古屋帯です。名古屋の先生が考案したので名古屋帯と命名されました。

2011年11月24日木曜日

名古屋帯

名古屋帯はお太鼓結び専用の略装帯として考案されたものです。
 A=織物の九寸名古屋帯(生糸を使用)
B=織物の九寸名古屋帯(生糸を使用)
C=紬の八寸名古屋帯(副蚕糸を使用)
D=染の九寸名古屋帯(生糸を使用)
その他に・紬の九寸帯(副蚕糸を使用)・織物の八寸帯
 (生糸を使用)・博多の八寸帯(副蚕糸を使用)があります。
 
  名古屋帯の本来のものは九寸名古屋帯です。帯の出来上がりの幅は礼正装用は八寸が基本です。
九寸名古屋は仕立てる前が九寸の幅がありますので九寸名古屋と呼ばれています。九寸は芯を入れて仕立てるのですが、仕立ててしまえは基本の八寸の幅になります。
九寸は芯を入れて仕立てますので手間がかかりますので簡単な仕立てで使用できるように戦後になって八寸名古屋帯ができました。名古屋帯はお太鼓結び専用の略装帯ですから礼装盛装の時は締めれません。
名古屋帯は外出着以下の着物の時に締める帯ですが、きものには染の着物俗に柔らか物と言われるものと、先染の織の物とがあります。
染の着物は、ご挨拶とかお礼に他家を訪問するというような儀礼の場にも着れるおきものです。
織りものはお洒落着です。
染の着物の時は上のA・Bの織物の名古屋帯を合わせるという約束事があります。
紬などの着物の時はCの紬の帯か、Dの染の帯を締めるという約束事になっています。
江戸時代はどんなに裕福であっても町人は織物の帯を締めることを奢侈禁止令で禁止されていました。
外出着、普段着を問わず染の腹合わせ帯を締めていましたので、染の帯は小紋などの染の着物にも締めれるという事になっています。
色の調和が取れていても材質の調和が守られていませんと着物を知らない人ということになります。

2011年11月23日水曜日

小紋

小紋は細かい柄のきものと思っておられる方がいらっしゃいますが、上図の着尺は全て小紋です。
細かく柄が込み入っているものも、下図左の大きく飛んでいる柄も全て小紋です。
小紋とは小紋型という型紙で染めたきものという意味です。
型紙には大紋、中型、小紋型という種類があります。
 旗や布団のように大きな模様を染める時は大紋型を使用します。浴衣や手拭などを染める時は中型を使用します。ちなみに浴衣は専ら中型で染めますので浴衣のことを別名中形とも言います。
 着尺や羽尺を染める時は小紋型を使用しますので、柄の大きさに関係なく型染めの着物は全て小紋と言います。
小紋を染める時は柄色一色につき一枚の型紙を使います。柄がずれないように錐で空けたような細かい穴をあけて置いて、その穴に各型紙を合わせて型置きをして、柄色一色づつ染めていきます。全体で五色の柄色があれば5枚の型紙で一つの柄色を染めます。従って色数が多いほど型紙の枚数が増え、手間も掛かりますので値段が高くなります。
普通は品は型紙を使って色糊で染めますが、高級品は型紙の上から刷毛で色を差す手差し小紋というのがあります。
手差し小紋は大変な手間と技術が必要ですから値段も高くなります。
きものの値段は生地代よりも如何に手間が掛かった染であるか否かで決まります。
100%型染かそれとも手差しが加えられているか、全くの手差しかで値段は決まりますが、素人の人は色や柄の好みで選択するだけで、染の良し悪しまでは判別は難しいだろうと思います。

2011年11月22日火曜日

安土桃山時代の女子の服装

NHKで放映している大河ドラマ「江」の安土桃山時代の衣裳に付いて述べます。
私達の着ている着物のことを昔は小袖と言っていました。
その小袖が中心の時代になるのは安土桃山時代からです。
小袖が中心の時代というのは礼装は従来通りに存在しますが、貴賤を問わず普段は小袖で過ごすようになるという事です。
安土桃山時代に武家の女房は礼装に打掛姿を採用します。打掛は小袖の上に小袖を羽織る姿です。
これが武家の上級者の礼装ですからお市の方などの奥方は打掛姿でいます。
打掛は上級者の礼装ですから下級者や江などは普段は小袖姿で生活しています。
その小袖ですが身丈はおはし折のないつい丈です。
模様は友禅がありませんので簡単な一色染めの型染か、絞りが主です。
髪型は垂れ髪ですから今のように衣紋も抜きません。
男性と同じで襟が後ろで首に当たっています。
帯はこの当時は丸帯が主で、その帯幅は2~3寸の幅で自由な位置に結んでいました。
帯結びが後ろになるのは帯幅が広くなる元禄期以降です。
小袖の正式な着装は十二単の重ね着を真似て3枚重ねです。一番下に白の小袖、中は色物の小袖、表着の小袖は絵模様を着るということになっています。
 打掛の正式な着装の時には打掛の下の小袖が3枚重ねになっています。
上図左がそのつい丈の時代の打掛姿です。平和な時代が続きますと衣服も優雅になり身丈が長くなり屋内では裾を引いて着装するようになります。右図がそうで、そうなりますと裾にふき綿が大きく入れられるようになります。

2011年11月21日月曜日

松は四季常に青く寒い冬にも葉を改めず。そんなところから変わりやすい人の心を戒めるという意味から
松の常緑を貞徳になぞらえて吉祥としている。
松の長寿を寿ぎ(ことほぎ)更にこれを人の長寿に結び付けて目出度い木としています。
そんなところから同じく長寿と言われている鶴、亀との組み合わせがデザインに取り入れられています。
松は三寒三友として竹と梅と組み合わせて最もお目出度いものとして扱われています。
 日本では松、竹、梅の順でランク付けされることがありますが、それは松は平安時代、竹は室町時代、梅は安土桃山時代に嘉樹とされましたので時代順に並べられたことがランク順にも用いられているのです。
 
 松は神霊の依代(よりしろ)として、また神霊それ自体とみなされて霊木、神木ともみられ、正月のしめ飾りやへっついかまどの飾り松として用いられます。

2011年11月20日日曜日

自然と日本人の美意識

日本の衣服史上を見てみますと華やかな色彩の衣服が流布した時代はあります。
平安時代の藤原時代、安土桃山時代、元禄時代で元禄時代以降は財政逼迫期に入り、奢侈禁止令によって贅沢を抑制されましたので、文化文政期以降は一般人の好みは茶、黒、鼠などの渋い色が好まれるようになりました。
経済という時代背景に影響されるところも大きかったようですが、日本人は茶系統、鼠色系統、紺系統等の色目の衣服を着装しますと何か落ち着くのでしょうね。
額田王が春と秋を比較して秋に軍配を上げていますが、そのことに象徴されるようにどちらかというと秋の方が好きという人の方が多いのです。秋は色が褪せて行く季節ですから、色で言えば茶色系統や紺系統や鼠系統ですよね。
あまり派手ではない茶系統や鼠色系統や暗い藤色系統や黒色系統を着ていると落ちくのです。
これは日本の四季に大いに感化された好みであると言えます。
それと同時に東洋人独特の陰鬱な顔つきが影響しています。
自分の顔を何時も見ていますので陰鬱な顔つきに、派手な色が合わないという事を理屈抜きに肌で感じ取っているのだと思います。
私は武庫川女学院の町内に住んでいましたので、通学してくる生徒を数多く見ていますが、若いのに着ている衣服の色は白、黒、茶系統、紺系統、グレー系統の渋い色を着ている人が圧倒的です。
普段渋い色の衣服を着ていますので、急に派手な色目の衣服を着ますと浮いてしまって身にそぐわないで退けてしまったという経験をされた覚えがあると思います。
ところでグリーンは色目としては好きだという人が多いのですが、グリーン系統の色目の衣服を着ている人は少ないですね。日本は四季に恵まれ山も多く比較的グリーンが多いので、無意識にかぶってしまうのを避けているのではないかと思います。
こういう美意識も国民性の一環なんでしょうね。

2011年11月19日土曜日

日本人と色

私達日本人は赤、オレンジ色、黄色、ピンク等の派手な色目というのはあまり好みません。
色としては好きであってもその色の衣服を着用するという事はあまりしません。彩のパッとした衣服は日本の町の風景には目立ちすぎるからでしょうね。
町の色や自然の色に溶け込んで目立たない色目の衣服を好みます。
これは町並等の風景の色目だけでなく東洋人独特の陰鬱な顔立ちというものも影響しています。
陰鬱な顔立ちに派手な色目は衣服だけが浮いてしまってそぐわないからです。
洋服の色は総体的に男女を問わず好みは地味目です。
それでは白人は総体的に派手な色目のものを着ているかというとそうでもありません。
派手な色を着用しているのは熱帯の常夏の国の人ぐらいですね。
色目はそんなに派手な色を着ていませんが稀に高齢のご婦人が赤などのジャケットなどを着ているのを見かけますが、お顔や体形にマッチして物凄く素敵です。
彫りが深く華やかな顔立ちと足が長くバストの大きい体形にはどんな派手な色目の洋服も似合うのです。
そういう素敵な姿を見ていますと「あーやはり洋服は体形の美しい外人のものだなぁー」という感じがします。
日本人の脚の短いバストのない陰鬱な顔には間違ってもフォーマルのロブ・デコルテやイブニングやカクテルは似合いません。若い人は何とか着れても中高年になると見れたものではありませんね。
体形と顔が洋服のフォーマルは受け付けないのです。
その点きものは逆に外人には似合いません。
 顔が華やかすぎるのです。体形は足が長すぎて帯から上と帯から下の長さのバランスが下が長すぎておかしいのです。
そして着物のフォーマルは絵模様になっていますので、背が高すぎて色と柄が目立ちすぎるのです。
その点日本人が着ますと顔の陰鬱さを着物の華やかさが彩を添えて華やかな雰囲気にしてくれます。
背が低くて足が短くてもきものを着てホテルなどのパーティーの場に行きますと、外人のイブニングドレスを着た人に負けない華やかさを醸し出してくれます。
ホテルなどで着物姿の人を見かけますと洋服姿の人は勝てません。
皆さん美しく目立ちたいという願望を抱いて様々に努力をしお金も使っています。それなのに何を着れば自分を最も素敵に美しく見せれるかを知らなすぎます。最も素敵に美しく見えるきものを疎かにしすぎです。

2011年11月18日金曜日

竹も松と同じく長寿で秋にも葉を落とさず色が変わらない。
しかも一直線に伸び弾力も強く折れにくい。
これを人生に比して節操の堅いことを讃美しています。
竹は霊的なもので神霊の依代(よりしろ)として、また招代(おぎしろ)として現在でも神事には必要欠くべからず植物とされ、地鎮祭や七夕には主役として使用されている。
中国では瑞鳥鳳凰が桐の樹に宿り、竹の実を食べて成長するという慶寿の植物とされていた。節操の正しいものの代表として四君子の一つに数えられ、そういう考えが松と梅と結びつき歳寒三友松竹梅の観念を生み出し広く一般に知られるようになった。

2011年11月17日木曜日

小袖

A=唐衣裳 B=袿 C=小袖袴 D=はつき E=湯巻
 
 きもの、昔は小袖と呼ばれていたのですが、その小袖は貴族の間では当初は肌着として着用されていました。
十二単というのは俗称で正式には唐衣裳(からぎぬも)といい礼装でした。礼装ですから儀礼儀式用で普段は上図の袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。上級者は必ず袴を穿いて衣(きぬ)をはおっていました。
政権が武家に移行すると公家の力が減退し、それに伴って衣服の簡略化が進みます。
室町時代になりますと、小袖袴(こそではかま)のように上に衣(きぬ)をはおらない形、また「はつき」と言って袴を穿かない姿、湯巻と言って小袖に裳(も=裙ひらみ)を付けただけの姿も女官たちの服装として認められるようになります。そうなりますと肌着として用いられてきた小袖は露出する部分が多くなります。
洋服のTシャツが肌着として用いられていた時は白色であったものが、表着として用いられるようになりますと色が付けられプリントものが大勢を占めるようになったのと同じで、小袖も白であったものに色や柄が付けられるようになります。
  時の支配者層は小袖を肌着として用いていましたが、庶民はずーと小袖を表着(うわぎ)として用いて来ました。安土桃山時代になりますと、その庶民の小袖と上級者の小袖が表着として着用するという点で合流をして、安土・桃山時代からは小袖中心の時代になります。
小袖中心の時代というのは貴賤を問わず普段は小袖で過ごすようになるということで,現在NHKの大河ドラマ  「江」はその小袖が衣服の中心になった時代のドラマで す。
ドラマ「江」では打掛姿が上級者の姿として出てきます。別名は「かいどり」ともいいます。
「はつき」というのは小袖に衣を羽織った姿ですが、その姿を真似て武家の女房達が小袖の上に小袖をかさねて礼装として採用しました。それが打掛です。

2011年11月16日水曜日

椿

椿は中国では瑞祥破邪の霊樹とする観念があり、長寿をめでる宮廷の采女(後宮の女官)はこの椿を装束の文様としました。
そういう観念に反して椿は陰の花として普通の人家には植えるものでなく、花が首からポトリと落ちるので縁起の悪いものという観念がありますので、文様として用いられることは少ないのです。

2011年11月15日火曜日

足袋の文数

家康が寛永通宝を作ったものの中国の貨幣が強くて一向に通用しないので仕方なくお触れを出して寛永通宝を使え、ついては草履、下駄、足袋はすべてこの寛永通宝を単位として表現する。一枚で一文、十枚で十文とすると決めてしまいました。それから足袋は文数で呼ばれました。
足袋はcmで表されるようになるのはそんなに古い話でなく、それまでは専ら文数で表し、一文は2.4cmですから私は26cmですから11文半を履くなどと言っていました。
昔の公家の履物は靴、履、沓(いずれもくつ)でしたの襪(しとうず)という指のないひも付きのものでした。
足袋に親指の股が付くのは高貴な人が草履を履くようになってからで、江戸時代は一般庶民は礼装時以外は足袋を履くのを禁止されていました。
明治になって一般の方たちも足袋を履くようになり足袋にこはぜが付けられるようになりました。
こはぜは明治10年位からだと文献にあります。

2011年11月13日日曜日

白色

冠位十二階の制において冠の色で位階を示すようになりました。
徳(とく)、仁(じん)、礼(れい)、信(しん)、義(ぎ)、智(ち)に大小を設けて十二階としたわけですが、白色は義の臣下の色として用いられていました。
その後奈良時代の大宝律令(701年)によって服制が改められ服色によって階級が表現されるようになり白色は臣下の色から姿を消します。
白昼という言葉があるように白色はさんさんと輝く太陽の色、即ち天皇を象徴する色として扱われるようになります。
白はまた清浄な色として神事に欠くことの出来ない神聖な色として扱われるようになります。
現在は喪の色と言えば黒が一般的ですが、黒が喪の色として普及するのは大正年間以降でそれ以前は白でした。
結婚式も喪服も白色ですが、吉事の白色は地に地模様がある者を使用し、喪の場合は無地を用いました。
目にし手にすることの出来る事物の全ては生活を豊かにするためのものであり吉事に通じす。したがっておめでたいときには大自然の力にあやかるという事で地模様のある白を用いましたが、凶事の時には無地を用いたわけです。
時代劇を見ていますと大名や高貴な役職者は襦袢の襟に白色を用いていますが、下級の武士は鼠色を用いています。また町人は一般的には黒色の半襟を付けています。
これは白色は高貴の人の用いる色で下級者は用いることを禁止されていました。
下級者が白色を用いていて罰せられたという逸話も数々あるそうです。

2011年11月12日土曜日

きものが作法を変えた

上記左図は小袖姿で身丈は対丈であることがわかります。
 きものの丈が長くなって屋内で裾を引いて着るようになるのは元禄期以降です。それまでは男性と同じように女性も対丈に着て衣紋も抜かない着装をしていました。
裾を引くようになりますと身幅が広いと足捌きが悪いので反物の幅が狭くなります。当然のことながら身幅も狭く仕立てるようになります。右の二枚の図を見て頂きますと、上級の女房も一般庶民の女性も男性のように「胡坐」「立膝」で座っています。
日本の文化は大陸の模倣で始まっています。中国や朝鮮では今も女性は立膝ですから、日本人もそれに倣って男性は胡坐、女性は立膝というのが一般的な座り方だったのです。そのことを上図は証明しています。
  裾を引いて歩くようになってから身幅が狭くなり、反物の幅そのものが狭くなりますが、それ以前は反物の幅が42cmくらいありましたので身幅が広く、その上身丈は対丈ですから、胡坐や立膝で座っていても前がはだけて見苦しいということがなかったのです。
 身幅が狭くなると胡坐や立膝では前がはだけて見苦しいので、座礼は男女共に正座をするようになります。 公家の女房も普段は袴を穿かなくなったことも正座を促す一因になったのではと思います。
 映画や演劇では男性は江戸時代以前は胡坐で、そのままの姿で描いていますが、女性は胡坐や立膝の姿では女らしさが出ないから、作法の面では時代考証を無視して描いているのだと思います。若い監督ならそういうことを知らない人もいるかも知れませんね。
お茶は村田珠光が開祖となって室町時代から行われているのですが、正座が普及する以前はどういう形で茶事をやっていたのでしょうね。そういうことを解説している茶人はいますか。皆さんの中で知っている人がいらっしゃったら教えて下さい。

2011年11月11日金曜日

何故十二単という俗称が付けられたのか

十二単の単は衣(きぬ)の意味で、衣は上に着装している大袖のきもののことですから、衣を重ねて着たことから付けられたものであることは間違いのないことだと思います。
それでは十二領(りょう=枚)重ねているのでしょうか。
着ている服を下から順に数えます。
  ・白の小袖 
・長袴 
・単衣(ひとえ) =単仕立ての身丈も裄も最も長い衣
・重袿五領(かさねうちき)五枚重ねる (室町期から5枚と定められる)
  ・打衣(うちぎぬ) =砧で布を打ちつけて光沢を出してある無地の衣
・表着(うわぎ) =一番上に着る衣で五色の糸で彩色した織物で出来ている
・唐衣(からぎぬ) 
・裳(も)=腰で後ろに付けている
以上十二点着装していますので、ここから来ているのだと思います。
 重袿は三枚を一組として五組七組、即ち15枚、21枚と重ねて着ていた時もありますが、
室町時代の末期に五衣(いつつぎ)と言って5枚に定められました。
5枚に定着してから12点になったのですから、十二単という俗称は室町時代以降に付けられた俗称ではないでしょうか。
正式には唐・衣・裳といいます。

2011年11月10日木曜日

冠位十二階の制で冠の色によって位階が表現されるようになります。
紫は徳冠の位階の色として制定されます。
紫微(しび)というのは北斗の北に位置する星の名で、中国の天文学ではここを天帝の居所とされています。
そんなことから天皇の宮殿の意味として用いられ、それに因んで天皇の住まいを紫宮(しきゅう)といいます。
紫はそのように大変高貴な色ですから、紫は五行を統べるということで一番格調の高い徳冠の色として用いられていました。
奈良時代になって色にも順位が付けられ位階相当の色というものが定められます。
位階の低いものは自分の位階以上の色は用いれれなくなるのです。
天皇と皇太子の色は白色と黄丹(おうに)で臣下の最高位は紫です。
そんなことで紫は高貴な人が用いる色として、例えば高僧の衣の色も紫が用いられています。
紫は昔は主に紫草の根(紫根)で染められていました。

2011年11月9日水曜日

芸者に見る衣替え

紋裾を来た京芸者 今日芸者独特の鬢を横に張らした結髪

芸者がお座敷に着て出る裾引きのきものを出の衣裳といいます。
その出の衣裳は次の様に衣替えします。
・1月~3月までは二枚襲(かさね) ・4月裾にふき綿の入った一枚袷
・5月は裾綿抜きの一枚袷 ・6月単衣か紗袷 ・7~8月絽縮緬
・9月単衣 ・10月裾のふき綿抜きの一枚袷 ・11月裾のふき綿入の一枚袷
・12月ふき綿入の二枚襲

以上が芸者の衣替えで、同じ袷や単でも春、秋。冬に着装する衣裳は季節の色柄に相応しいものを
着ますますので年間に着替える衣裳の数は大変なものです。


映画演劇などの衣裳会社は芸者や舞妓の衣裳を別染めで作るのは莫大な制作費が掛かりますので、私が入った頃は古着を買っていました。昔は貢いでくれる旦那衆が沢山いましたので、少し古くなると古着屋に回って来ていたのですが、今は時代が代わり旦那衆が少なくなりましたので、衣裳も古着屋に回ってくる頃は再利用出来る状態ではなくなりました。
そんなところにも時代が反映されています。

ところで現在では留袖の礼装しか下着は重ねなくなりました。
中振袖や訪問着には下着はついていません。昔は富裕層は普段着でも重ね着をしていましたので,どんな着物に下着を重ねても間違いではありません。
それが証拠に中振袖や訪問着を着装する時に重ね衿を付けます。
それは襟元を華美に装飾するためのものでなく、省略して襟だけを下着として重ねてきるのです。
その下着は上記のように、季節によって重ねたり重ねなかったりします。
例えば4月になって着る場合は、本当は重ね襟はしない方がいいのです。
そういうことをご存じでない方は華やかにしたいから、どうしても重ね襟を付けてほしいという人も少なくありません。
留袖も6月9月の単や秋袷、春袷の時期には下着は重ねない方がいいのですが、最近は殆ど比翼仕立になって、表着にくっ付けられていますのでそういう調節ができません。
比翼仕立てにすることが通常になってきているということは、きものの決まりに付いてご存じでない人が増えてきている証しです。

2011年11月8日火曜日

衣紋道

藤原時代になりますと礼装は日本独自(中国伝来の朝服のアレンジ)の衣服が着用されるようになります。
 男子は衣冠束帯(いかんそくたい)、女子は俗に十二単{正式には(唐衣裳)からぎぬも}と言われるものです。
衣冠束帯は平安末期の鳥羽帝以前は凋装束(なえしょうぞく)といって、全体にやわらかい裂地のものでしたので、着装が下手でも目立たなかったのですが、鳥羽帝の時に剛装束(こわしょうぞく)と言って、全体を糊で固めてゴワゴワに張ったものになりました。そうなりますと下手に着ていると目立つので着付けをしてもらう人が必要になりました。
鳥羽帝の左大臣となった源有仁(みなもとのありひと)が開祖となって、着付や調度といった衣服全般に渡って専門に携わる衣紋道をつくりました。
 衣紋道では着付けに携わる人を「衣紋者」と言いました。装束を着付ける時は「前衣紋者」と「後衣紋者」の二人で着付けます。後ろ衣紋者の方が上級者です。
 源有仁を開祖とした衣紋道は「高倉流」「山科流」に引き継がれ現在も存在しています。
 凋装束から剛装束に変わった時代は武家が台頭してきた時代で、公家は容儀を整えて威厳を保たなければいけないという政治上の理由から生じたものではないでしょうか。
 私は長年着付けに携わったいますが、お稽古に来られる人の中で特にお茶を習っている人の中には、お茶は高尚なお稽古事で着付けに対しては「着付ぐらい」という侮りを持つ方が少なくありません。それは何を根拠としてそういう観念をお持ちになられるのかしれませんが、歴史が古いということからいえば衣紋道、即ち着付けは鎌倉時代の初期からのものであり、お茶は室町期以降ですから歴史の重みは着付けの方が重いのです。

2011年11月7日月曜日

ドラマ「江」に見る打掛

公家の女房達は普段は袴を穿いて上に衣を羽織った袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。
公家の勢力が衰退し益々武家の力が台頭してきますと、公家社会の服制は簡略化されていきます。
室町時代になりますと袴を穿かないで小袖の上に衣だけを羽織る「はつき」という形が公服として認
められるようになります。
権力者の武家の女房達はその「はつき」を最上の服として当初は用いていたのですが、桃山時代にな
りますと衣の代わりに小袖の上にもう一枚小袖を羽織って着る「打掛姿」または「かいどり」という
姿を自分達の礼服として用いるようになります。
写真は「ねね」が織物の打掛を着ている姿で、絞りに刺繍をあしらった打掛を着ています。
  日本の染織の歴史を見ますと染物よりも、友禅が考案されて繊細な絵柄を写し出すようになる以前
は織物の方が進んでいました。それは染方が草木染が主であるという、技術的な難しさが原因であっ
たろうと思います。
従って織物の打掛もあったことはあったのですが、小袖は本来は肌着、下着であったものから発達し
てきた衣服ですから、肌になじんで柔らかい材質のものが好まれました。
天正時代に堺では明から伝わった綸子、縮緬が織られるようになり、羽二重、綸子、縮緬が小袖の
材質の主となります。打掛は小袖と同じく、柔らかくて肌になじみやすい綸子や縮緬に彩色をして用
いることが主でした。
民放の大奥ものを見ていますと全員が金ぴかの織物の打掛を着ています。
あれは綸子地に染と刺繍を施した打掛を製作しますと別染めですから大変高額なものになりますので
、安価に出来る化繊の織物を用いて形だけを同じにしているのです。
そういう点ではNHKはお金をかけていますね。民放では予算的にできないでしょうね。

2011年11月6日日曜日

「江」の時代の小袖




当時は小袖が中心の時代ですから男女共に普段は小袖姿で過ごすようになっています。
その女性の小袖は現在のようにおはし折を設けて着装するのではなく男性と同じ対丈で、衣紋も垂髪ですから男性と同じように抜きません。
時代考証的に言えば当時の小袖は身幅がうんと広いのです。
大人のきものは長着と言います。長着一枚分を一反といいます。一反の長さは3丈が基本です。
寛永年間の幕府通達には一反は曲尺の3丈2尺(9m70cm)の長さで、幅は1尺4寸(42cm)に定めると文献にあります。
現在の一反は鯨尺で基本的には3丈(約12m)あり幅は9寸5分(36cm)です。
反物の幅が現在のような幅になるのは元禄期以降です。
それまでは反物の幅が広かったので元禄期以降と以前では、仕立てる時の裁ち方が図のように全く違います。
元禄期以前の小袖は裄は極端に短く、身幅が物凄く広く、襟先の位置は低いのが天正小袖の特徴です。
そういう極端に身幅の広い小袖を着装しますと、能装束の小袖姿に見られるように上前は後ろの方に回り、褄先は跳ね上がり、襟合わせは首に巻きつけたような打ち合わせの深い襟合わせになってしまいます。
私が映画の仕事をしていた頃は天正小袖の特徴を表現するために、普通の身幅のきものですが上前は少し後ろに回して上前の褄先を上にはねて能衣装の小袖姿のような着付けをしました。
時代考証に忠実に着装すればそうしなければいけないのですが、それでは美しい着装に見えません。
ドラマであり商業演劇ですから、時代考証に忠実よりもヒロイン達を美しく見えるようにすることの方が大切だと思います。
小袖の着装方だけは時代考証的には少し違うのですが、そういう事よりも「江」を見ていると小袖の美しさと時代考証的によく考えて製作されていることに酔ってしまいます。前回にも記しましたがさすがはNHKです。

2011年11月5日土曜日

ドラマ「江」を見て思う

お市の方役の鈴木保奈美さんの着物姿は大人の女性のしっとりとした感じが出ていて素敵でした。それに劣らず宮沢りえさんの着物姿も素敵です。
 宮沢りえさんの伊右エ門のお茶のコマーシャルの着物姿は、以前から何とも言えない品の良い色香が漂っていて素晴らしいと思っていたのですが、「江」のドラマの着物姿もやはり素敵です。
 彼女は着物にはもってこいの体形をされているのです。
着物を着た時は襟足から肩先に流れる肩山のラインが大切で、宮沢りえさんの肩山の流れは大変優しい流れになっていて色香を増幅させています。
 対丈の小袖は男性の着付と同じように、帯の位置は前は下腹部にあてがい、後ろに行くほど少し脇上がりに巻きつけて後ろでは腰の位置で結びます。
茶々も同じように下腹部に帯を当てがい腰で結んでいるのですが、腰骨の位置が高いのでしょうね、他の役者よりも高い位置に帯が巻きつけられているように見えます。
彼女達はスタイルが良くでウエストも細いでしょうから、あのような着装をするには恐らくバスタオル一枚では足らないくらいに補正をしています。
対丈の小袖はウエストに補正を入れていないとあのような素敵なシルエットはでません。
ウエストが窪んだままですと帯はウエストの細い部分に上がってしまって、無様な着装になってしまいます。対丈で帯も細いので着装は簡単なようにおもいますが、そこが天正小袖の着装の難しさです。
 腰元達まできれいに補正をして皆さん素敵に着こなしています。見ていて気持ちがいいです。

2011年11月4日金曜日

「江」の時代の肩衣袴と江戸時代後期の裃

武家の通常公服は直垂(したたれ)であったものが、素襖の袖が邪魔で肩で結んでいる姿が前回掲載の写真に見られるように、「江」の時代になりますと直垂系統の袖が取り除かれて肩衣袴が誕生します。肩衣袴は別名「手無し」などと呼ばれました。
 江戸時代になり平和な時代が続きますと、衣服は形式化して華美になり、写真のように肩には鯨のひげを芯にして大きく横に張らしたものになります。まるで「鳥の羽を広げたたる如し」という肩衣になります。
 前身頃は襞を深く取ってうんと狭くなります。袴はスカートのように末広がりになり、前時代のズボン状の形から一変します。
肩衣袴の袴紐は当初は別布ですが、江戸時代の裃の時代には共紐になり、腰の部分には腰板が付けられるようになります。
紋は当初から大紋、素襖と同じく胸と背と腰の部分とに付けられました。前時代には素襖のなごりで袴の横の投げの部分にも紋が付けられていたものもありましたが、江戸時代の裃の時代になりますと袴は後ろの腰板の部分にだけ付けられるようになります。
江戸時代の裃の時代になりますと柄は細かい単色の小紋になります。
小紋には将軍家の「松葉」、島津家の「大小霰」、鍋島家の「胡麻」、武田家の「武田菱」、加賀前田家の「菊菱」など、他の者が用いてはいけない留柄というものも出来ます。
その裃の文様が後に江戸小紋としてきものの柄に用いられるようになります。
江戸小紋という名称は昭和29年に文化保護委員会が江戸時代の技術をそのままを受け継いでいる小紋型染を、無形文化財に指定するときに多彩な小紋と区別するために「江戸小紋」と名付けました。