2013年1月31日木曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No60

淡路黒岩水仙郷

 教える方では私がいますと、彼女は従になってしまいますので、彼女も私が同席しないほうがよいという雰囲気でしたので、私はほとんど教える場にはいかなくなりました。
彼女と私との関係は五分五分の共同経営者ではありますが、それ以前にお稽古の世界においては私は師匠であり彼女は弟子であるわけです。
 芸能界などでは弟子がいくら売れて、師匠を凌ぐ人気があり、また稼ぎがあったとしても、弟子と師匠の間は絶対服従というのは当たり前のしきたりですが、この頃になりますと彼女も自己主張が強くなり衝突をすることも再三で、時には私に学院を出て行けと暴言をはくようになっていました。
仕事に関しては彼女は変わることなく熱心なのですが、お互いの考えにズレが生じてきていました。
 着物は斜陽でありお稽古をしたいという人も次第に少なくなってきていますので、作法や所作を取り入れて女性を美しくするための総合講座を取り入れてやっていきたいと私はおもっていました。ところが彼女は日舞など自分の趣味に時間を費やすことが多くなって私の意見に耳を傾けなくなってきていました。
それでも仕事は熱心に前向きにきちっとやっていましたので、彼女に任せていればまちがいないので、諍いがあってもどちらかというと私の方が引いていました。
 私が教室に行くことが少なくなっていましたので、その頃から一人で暇潰しによく飲みにいくようになりました。

2013年1月30日水曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No59

生駒聖天 七福神

 私のような貧乏人の強さはそういう事には負けておれないというど根性です。
貧乏人からそのど根性を取り除けば何ものこりません。
 酒も飲まない博打もしない、仕事一筋で辛抱強くがんばりました。
毎年秋に発表会をしています。震災の年は秋になっても生徒は八人だけという状態でしたが、元気が復興スローガンでしたので、大赤字を承知の上で発表会を行うことにしました。八人しかいませんので全員が何役もこなして振る回転の発表会でした。
お陰様で大勢のお客様が来てくれて「元気を頂いた」と喜んでいただきました。
その声に励まされて私たちもがんばれました。
 その後震災復興が順調に進み、それに伴って学院も徐々に生徒が集まるようになりました。
集まると言いましても既にバブルが崩壊して不景気になってきている時でしたから、そんなに繁栄することはなく何とかやっていけるという状態でした。
 私は学院を興してた時は既にきもの教室は下火になっていた頃で、学院がなんとか運営していける時期にはバブルが崩壊していて、経営的に美味しい思いをしたことがなかったので、苦痛ではありませんでした。
バブルが崩壊して派手にやっていたきもの学院は潰れましたが、私どもは地道に細々とやっていましたので、何の影響もなく続けることができました。
きもの学院は、自分で着ものを着るというのが主目的ですから、男の私よりも女性が主となって運営して行く方が理想です。
彼女とコンビを組んでやって来て既に20年以上の歳月が経っています。彼女は頑張って立派な先生になってくれていましたので、この頃になりますと教えるという部分は全て彼女に任せていました。私は販売部がありましたのでそちらの方を主に担当していました。

2013年1月29日火曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No58

宝山寺 生駒聖天

 7日の日は自分の家の片付けがありましたので動けませんでしたが、8日に自転車で生徒の家を回りました。お母さんを亡くされ人、家が倒壊してしまった人などもいまして、慰めの言葉も言えないような惨状でした。
その月にお稽古に来られた人は3人だけでした。当たり前ですねお稽古どころではありません。3人でも来てくれて有難いことです。
しかしついてないです。苦労して有り金をはたいて基地を設けて「よしこれからだ」という矢先の震災です。家族は無事で家の被害もたいしたことがなかったことだけでも幸いと思わなければ仕方がありませんが、当分は人は集まらないでしょう。
またまた大きな試練をうけることになりました。
何とか家賃は払っていけそうでしたので我慢する以外にありません。
そうこうしているうちにまた不運が舞い込みました。
テナントを借りているビルが抵当に入っており、倒産して競売にかけられることになりました。競売で買った新しい家主が出て行くか、新しく賃貸契約をし直してほしいといことです。
有り金をはたいて借りて直ぐでお金があるはずがありません。どうにもならないのか友達に弁護士がいましたので相談をしますと、法的にはどうにもならないということです。
仕方がなく知り合いの不動屋に相談にいきますと、仲介をした不動屋さんとは旧知の間柄だから話をしてくれて、新たな敷金は納めないで家賃だけはそのまま新たな家主に支払うということで話をつけてくれました。
これでそのまま教室は使えますが、敷金である大金は水泡の如く消え去りました。
踏んだり蹴ったりというのはこういうことでしょうか。

2013年1月28日月曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No57

生駒聖天 宝山寺惣門


 充実した気持ちで頑張っていましたので、5年後には基地を持てるようになりました。
忘れもしません。平成6年12月です。教室の改装をして年を越せば新年度から出教室に行かなくても基地でできるようになるのです。
苦労しましたがやっとここまでこれました。年が明けてオリエンタルホテルで新年会を行い。私たちにとっては成人式は大きなイベントですから成人式を消化して、よし明日から通常通りの教室が始まると心を新たに気合を入れた矢先のあの阪神淡路大震災です。
 わが家は食器棚の中の食器は全て飛び出し、冷蔵庫は倒れてめちゃくちゃです。足を切らないようにしながら揺れが静まってすぐに、娘が一人住まいをしていましたので、娘のところに駆けつけました。その道中にパートナーの家がありますので、見に行きますと無事なようでした。そして阪神高速の甲子園球場の少し西側では阪神高速が落下してバスが頭を飛び出して状態で留まっていました。これを見て地震の大きかったことを認識させられました。
 娘は今津というところに住んでいたのですが、今津は古い家が多くて家が倒壊して、物凄い状態でした。娘のところのマンションは無事でしたが娘はいませんでした。いないという事は無事だと思って安心して待っていますとすぐに帰ってきました。あまりの怖さに他の部屋の人達と派出所にいっていたそうです。警官はいなくて帰って来てという事です。ワンルームマンションでしたが、備え付けのはめ込みの小さい冷蔵庫、ベットなどの家具は全て部屋の真ん中にきていました。いかに揺れが大きかったかを証明しています。
娘の部屋を二人で片づけてから教室に行きました。教室は棚が倒れて新しい畳に一か所傷が出来ましたが使える状態でしたのでほっとしました。

2013年1月27日日曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No56

                                          宝山寺

 甲子園と芦屋方面で出教室を持ちながら出張着付を本格化しました。
各家庭に出向いて着付を行うのです。当初は美容室の着付料の半額以下の2000円で行いました。
当時着付はまだ美容界の仕事という概念があって、美容室に対抗してお客を呼ぶには、安くする以外にないと考えたからです。
こんなに安ければ「一度騙されたと思って頼んでみようという」というお客様が絶対に出てくると計算したからです。
一度着付をさせて頂ければ芸能界で鍛えた着付の技は絶対に伝わりリピターになってくれるという自信があったからです。
こちらの思惑通りにお客様が急増しました。日銭が入ってきますので大変助かりました。
 出張着付があったために日曜、祝日、土曜日は忙しくて旅行などもしたことがありません。
私はいまだに海外旅行をしたことがないのです。仕事を断わって旅行に行く気にはならなかったからです。
 孫弟子もよく頑張ってくれました。大阪を出て彼女とコンビを組んで仕事を始める時に、彼女には家庭があってご主人もおられますので、男と女の関係で私が彼女を都合よく使っているように、彼女の家族に思われるのが嫌ですから、五分五分の共同経営の形をとりました。彼女も頑張れば頑張るほど報われる自分の事業ですから本当によく頑張りました。辛かったしんどかったですが、理念を共有している同志ですから苦しみは全て楽しみに変わり充実した日々が送れました。仕事をしていることが楽しかったのです。

2013年1月26日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No55

宝山寺(生駒聖天様)から見た奈良盆地

 学院は妻に譲って私が退きましたが、直ぐに家を出たわけではありません。
子供たち二人が結婚するまでは籍は置いておいてやりたいと思っていました。
家に帰れば全くの家庭内離婚という状態でした。
妻は毎日のように帰ってくるのは朝方で彼が出来たのかもしれません。
好きにすればいいのですが、子供たちがどう思うか少し心配でした。でももう子供たちも大人ですから自分たちの気持ちは自分たちでコントロールしていくだろうと思うしかありません。
 ある日上の娘が「お父さん私たちのことを考えってくれているのでしょうが、私たちは大丈夫だから、見ていられないからもういいのと違う」といってくました。
その言葉を聞いてその日のうちに布団と若干の衣類と本を持って家を出ました。
娘にも行先を告げませんでした。経済は妻に全て任せていましたので私は一銭もありません。当座の生活費だけは欲しかったのですが妻が隠してしまっていますので、一銭も持たないで家を出ました。
狭いマンションの一室を借りたのですが、事業の方は妻に学院を全て譲って出ましたので、また一からの出直しです。
 基地を設けるほどの金銭がありませんので、時間貸しの教室を借りて全くの一からの出直しです。今日はこちらの教室で明日はあちらの教室でというように、毎日ジプシー生活です。一回幾らの出教室は高くつくのですが、お金がないので仕方がありません。
5年ほどは苦労しましたが、経営のノウハウは経験して分かっていましたので、順調に伸びて行きました。

2013年1月25日金曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No54



女性は男には到底真似の出来ない出産育児という大仕事があります。
それをこなしてさらに自己実現を目指すというようなことは誰にでもできることではありません。
それを立派にやってのけたからこそ子供たちは認めてくれて、子供たちも負けないように頑張ったのです。
そんな立派な女性と巡り合って一緒に仕事ができることは、本当に遣り甲斐があって楽しかったです。これで私が考えていること、私が男性であることで出来ないことは全てやってくれる。様々なことを構想して実現できると喜んでいたのですが、妻がまたもや彼女を辞めさせろと言い出しました。
 論語の講師の言葉に「四十にして惑わず」とあります。
自分ももう四十です。何とか形になってきて。これから学院を確立させなければならない大切な時期にまた同じことを繰り返していては不安定な位置から離れることはできません。
子供は一人就職し、一人は卒業が決まり就職先も内定していましたので、離別する覚悟をしました。
その前に、こういうことを繰り返していては不安定な学院経営からは脱出できなくなるから、学院は私が経営していくから君は家で経理の担当をしてくれればよいと話し合いをしました。
すると妻は今さら家には居れないと私の頼みを断わりました。
「それなら俺はこの大阪から出て他で学院を興すから、この大阪の学院は君に進呈する」そういって私は思い出の深い大阪から去りました。

エッセイ「人生探訪」仕事編No53

親は子供のことはよく分かっていますが、子供も親のことはよく分かっています。
親がいい加減な行動をして、子供を放置していれば、子供はよく分かりますので、子供もばからしくなって道がそれて行ってしまうことはありますが、親が一生懸命に頑張っていれば子供は助けてくれるものです。
だからやる限りは立派な先生になって、子供たちに自分の母親は人様から先生と呼ばれて立派に活躍していることを見せることが一番大切ではないかと助言をしました。
子供をこう育てればよくなるという確定的な教科書はありませんが、昔から「子供は親の尺度しか育たない」「子供は親の鏡」という格言は的を得たデータですから、良い子供に育てるのは親が懸命に頑張ってその姿を見せることが、子供の一番の情操教育になるのではないかと話しました。
彼女もそうだということで、子供たちに胸を張って評価してもれえる先生になろうと決意して頑張りました。
朝9時ごろに家を出て夜の教室が終わって家に帰るのが何時も10前です。
全くと言ってよいほどに私の子供たちと、彼女の子供たちはほったらかしです。
それでも彼女の娘二人は二人とも、学校推薦の無試験で有名大学にはいりました。
姉の方は大学生になりボーイフレンドが出来たのですが、夕方の6時になると夕食の支度があるのでデートを止めて家にかえりますので、「お前と付き合っていても面白くない」と振られたというエピソードもあるくらいです。
本当に二人のお嬢さんは偉かった素晴らしいお嬢さんでした。これもお母さんが頑張っていたからです。



出張着付

goodポイント: 0ポイント

2013年1月23日水曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No52



 昭和の香り

 私も彼女と同じく二人の娘がいまして、事業を始めてからは子供と接することが少なく中学くらいになってからは食事の支度だけはしておいて、後は子供たちに任せるという生活でした。そういうことでは共通したものがありましたので、私の経験上で様々に相談にのりました。
 日本の歴史からいっても紀元後すでに2000年以上の人の営みがあります。太古から親が自分の子供が可愛くないという人はいません。どうすれば健康で賢く立派に育つか、みんな必死で考えて子供を養育してきています。
それだけの歴史を費やして実践を重ねて来ても、こういう育て方をすれば子供はこう育つという確かなデーターはないのです。
ヤングママ達の話を聞いていますと、さぞ分かっているように「あなたこうしなければだめよ」などと自信有り気に話していますが、いずれも決め手となる手段ではないのです。分からないのが実態であり、だからこそ人生は妙味があるのです。
ただ確かに言えることは、子供は親の玩具ではない。昔から社会の預かりものと言われていますが、それは確かです。親そのものも不特定多数の社会の人々の力によって大人になれましたので、少しでも早く自立できる子供に育てるのが親の責務であるということです。
 子供の自立を優先して考えれば親が余り構わない方が良いのではないかということです。
子供を構うか否かという事と、子供に対する愛情は別問題です。家庭の事情で子供と接することが少なくても愛情表現は十分にできます。
構ってあげれないけれども「お前たちのことは愛してるよ」ということを伝える手段はいくらでもあるということで、それを欠かさなければ構えなくても大丈夫だというのが自論です。

2013年1月22日火曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No51

                                                              昭和の香り

 彼女のご主人は有名大学を出ておられて会社では役員をされている立派な方です。ですが経済成長期にはよく見られた企業戦士で家には寝に帰るだけという人だったそうです。
経済的には不自由はありません。そういう環境の多くの女性は適当に気を紛らわせて遊んで暮らしていますが、彼女は遊びで気を紛らわせる生活は真面目に生きている感じがしなくて嫌だと言っていました。彼女の天性というのはそういう意味です。
そいう感じ方の人ですから、自分のやる気に火がついてからは、ますます努力を重ねて見る見るうちに立派な指導者になりました。
 彼女には二人のお子さんがいました。お嬢さんたちです。
彼女がお稽古を始めた時は上の子が5年生くらいです。そして先生として活動を始めた時は高校生になっていました。先生として活動を始めてからは毎日教室がありますので、子供の面倒はみれません。そのことが彼女には気がかりでよく相談を受けました。
 子供は多感な年頃で進学を目指して勉強をしなければいけない。そして食事の支度もして妹の面倒もみなければいけない。家が貧しくて母親が働かなければ仕方がないという家庭も少なくありませんが、彼女の場合は経済的には専業主婦で十分にやっていけますので、母親の活動に対してどう受け止めているかという心配があったのです。

2013年1月21日月曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No50


彼女は見事に育ちました。私が育てたというよりも彼女自身にそれだけの天性があったのです。
彼女には二人のお子さんがいます。
彼女がお稽古を初めた時はまだ上の子が小学校の5年くらいの時です。
それまでは着物を着る時は義母に着せてもらっていたのですが、義母が老いてきて出来なくなってきたので、子供たちの卒業式には自分で着れるようにということでお稽古にきたそうです。
きっかけはそうでしたが、大阪に来て私たちの話を聞いて、彼女の中に潜んでいた自己実現欲に火が付いたようです。
未婚の女性の多くは先ずは結婚に憧れます。そして夢と期待感に胸膨らませて結婚をします。ところが男女の仲は別に嫌いになるというわけではなくても、3年経てば慣れて、7年経てば飽きて一緒にいても必ずときめきは感じなくなります。恋愛感情というものは必ずそのうちにそのようになります。
若い人は「そんなことは考えられない。私は絶対にそのようにはならない」と異口同音に言いますが、それが若さですね。若い時はそれでよいのです。これは情愛の問題ではなく誰もが有する人間の性ですから仕方がありません。
女性の場合はそうなってからの人生の選択が大切です。大変困難な子供の育児が付いてきますので、そのことに追われてそのまま専業主婦のままで終わるか。それとも男女間では満たされないものを自己実現の方向に向けて始動するかと選択です。

2013年1月20日日曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No49


 私が創作した、踊りながら着付をして行くという着付舞という演技があります。
また舞台では目隠しで着付をして見せるという難度の高い演技などもしました.
また私が苦労しましたように話をすることは大変難しいので、発表会の時にはMCなどの難しいところは育成するために全て孫弟子にやらせました。
妻に任せてある教室では妻が自分のやりたいようにしてやっていました。生徒の中には着付なんか理屈はどうでもよい。着れたらそれでいいのだという考えの人も少なくありません。
それも一つの指導方法であり、それだと指導者はあまり勉強もせず出来ますので簡単に指導する側になれるわけです。
現在も着付に携わっている人は沢山いますが、ほとんどはそういうタイプの人達です。
そのやり方は、あまり勉強をしなくても出来ますが、教える先生が誇示できるのは技能だけですから、弟子は先生を超えることはできません。何故ならば技能面で簡単に先生に追いつき追い越せば先生が困ってしまうのです。
技能しか生徒に誇示するものがない人は、教える場合に大切なポイントには触れずに教えます。いくら熱心に教えてくれているように見えても、重要なポイントを説明をしないで見せるだけで教えていればいくらやっても生徒は習得できません。
妻もそういう指導方で、一切の理屈抜きで技能面だけの指導ですから、教えられる方は気楽ですから妻の方が良いという人が出てきて派閥が生じて来ていました。
小さい学院で派閥ができれば私が理想とする学院作りはできません。子供は一人は就職し一人は既に大学を卒業する時期に来ていましたので、離婚という最悪の事態が生じても、子供たちに対しては責任は果たせているだろうと勝手に判断をして、今度は妻と離婚をしてでも理想の学院作りをしたい。そのように孫弟子に話して付いて来てくれるかと言いました。
そうすると「頑張ります」という返事がもらえたので、その弟子の育成に専念しました。
男と女が一緒に仕事をしていますと様々に陰口を叩かれますが、そういうものは一切無視して懸命に育てました。



2013年1月19日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No48


 職人で一番大切なのは心なのです。心の問題を真面目に話のできない人は、何をやってもものになりません。その点からいえばその孫弟子が人生論を真面目に聞き入っていますので、この人はものになるだろうと思っていました。
弟子が辞めて行く時に「一つだけ頼みがある」と言いました。
「君が辞めて行けば、君の弟子は当然君に付いて辞めて行くだろうけど、あの孫弟子だけは連れて行かないで置き土産に残して行ってくれないか」と言いました。
そうすると快くそう伝えるといってくれました。
そしてその孫弟子も残りたいということでしたから、これで少しは希望が湧いてきてやる気が喚起してきました。
因みに辞めて行った弟子は今では京都方面で学院を興し立派にやっています。
俄然やる気がわいてきました。学院は開校して5年目からあの淡路阪神大震災の年も欠かさず年に一度劇場を借りて発表会を行ってきました。
その発表会ではその弟子と妻との間に確執が出来ないように気を配りながらも、重要な役割は妻よりも孫弟子にさせて育成することに専念しました。
女性相手のお稽古事ですから男の私が自分で着物を着て見せるということはできません。それが出来るなら人に頼まずに全て自分で仕切ってやるのですが、自分で着る分野は任せなければ仕方がないから私の意向を汲んでやってくれる右腕となる人が必要なのです。
それが妻であれば理想なのですが、妻は全くその気がないのです。

2013年1月18日金曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No47


私はよくお稽古の場で人生論を打ちました。子供の勉強でも仕事でもまたお稽古事でもみな一緒です。自分自身で前向きに取り組もう、頑張ろうという気持ちのない人は上達しませんし、良い仕事ができません。一番大切なのは気持ちです。精神が一番大切ですから意識高揚のために人生論を打っていたのです。そういう話を教室のお稽古の場でしますと、聞かなければ仕方がないから真面目を装って聞いている人が一番多いです。
真剣に真面目な話をしていますので「そんな話は嫌いと」露骨に態度で示す人もいますが、示せばこの人は駄目な人という烙印を押されるのが嫌さに、黙って聞いている振りをしている人です。露骨に嫌な態度を示す人や聞いている振りをしている人、前に座って皆を見ながら話をしていますと手に取るようにわかります。
生徒は分かられているということがわかっていないのでしょうね。
 そのように真面目な話を真面目に聞こうとしない人はお稽古をしていても上達はしませんし長続きしません。
身に付けようと自身で希望して取り組んでいる教養は、自分の人生にとってどういうメリットをもたらすかということを考えようとする真面目さがないからです。
着付ぐらいと侮っている人は多いのですが、その着付も上手にならなければお稽古に行ったけれども着れない人となり、侮っていながらそれさえも満足に出来ない人となります。そんな人のいかに多いことか。
上手になるにはどんなものでもそれなりの努力と苦労が伴うのです。真面目さのない人はそういう当たり前の道理すらも分からず、苦労や努力が嫌さにて辞めて行きます。
人生哲学を理解しようという真面目さのない人は頑張れないのです。

2013年1月17日木曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No46



 「離」の段階には指導者だけでなく、事業家として成り立っていかなければいけない経営面の難しさが伴います。
大金持ちの奥様がお金を投じて趣味的に経営するのとは訳が違います。一般人が経営に携わるには資金調達面の難しさと貴重なお金の損失という不安も付いてきます。
そういうあらゆる困難を克服して「やりたい」というご婦人を探すのは本当に困難なのです。給料を払っている人たちでも、経営的責任感を持って働いてくれる人を探すのは困難なのに、給料も払わないで前向きに取り組んでくれる人を探すのはそれ以上大変なのです。
そんな状況で折角育てた弟子を辞めさせるのはどんなに切なくで、辛いことか分かるでしょうか。
 その辞めて行く弟子には、既に大阪に月に一度来て本校でお稽古をする上級の弟子が7人いました。
私にとっては孫弟子になるのですが、先生が辞めて行くときには孫弟子も連れて辞めて行くのが通常です。それは当たり前のことですから仕方がありません。
その孫弟子の中に、お稽古が終わってから先生と人生論について語っていますと、そういう堅苦しい話は嫌いという人が多くて、さっさと帰って行ってしまう人がほとんどなのに、一人だけ何時も傍で聞いている孫弟子がいました。
それも目を輝かせて聞いているのです。
その孫弟子を見ていてこの人は教えればきっとものになるなという予感がありました。

2013年1月16日水曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No45



 学院にとっては大きな損失です。また私にとっても希望の星を手放したわけですから心に大きな空洞ができてしまい、先行きの目途がたちません。
主婦やOLを対象としたお稽古ごとの世界で、お稽古事で身を立てて行こうというような意欲のある人を探すのは至難のことです。
 お稽古ごとの取り組みの理想とする言葉に「修」「破」「離」というのがあります。
先ずは実技を積み重ねて修業をして、先生と肩を並べるところまでの技能を磨くということです。
上手の見本は教えていただいている先生で、先生と肩を並べるレベルまでお稽古を積んで初めて「修」の段階は終わります。
「修」の段階まで達すれば、そこで満足するのではなく、自分なりの工夫を凝らせて自分なりの新しいものを創作していくというのが「破」です。
お稽古に行ったけど」着れないというのが、お稽古をした人の大半です。
それが実態ですから「修」の段階をクリアするだけでも大変な困難が伴います。
そして「破」の段階にまで行くには先を見通した展望と、それを実現させようという強い情熱が無ければ達成はしません。
「離」というのは技能を極めた上に、更にそれをどう活用させて社会の中で活用させるかという社会活動の実践です。
幾ら知識、技能が豊かでも人の役に立たないものは価値がありません。身に付けたものは社会の中で活躍してこそ、本当の実りがあります。
お稽古をする限りは「修」「破」「離」の段階まで行って初めてお稽古事を通して、自分自身の人生の授業になるという教えです。

2013年1月15日火曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No44


妻の彼女を辞めさせろという要求が日増しに強くなってきました。
折角何年も掛かって育てた私にとっては宝です。現実に学院に対して金銭面でも貢献をしてくれています。そんな人が10人できれば学院は安定します。
ですから大切にこちらも情熱をもって育てた人を辞めさせろと言われれば、「はいそうします」とは簡単には言えません。しかしそれを実行しなければ離婚ということになります。
娘二人はまだ中学生ですから、大切な娘たちのことを考えると天秤にはかけられませんので、泣く泣く手放すことにしました。
こういう事態に陥りますと夫婦とか肉親というものは本当に扱いにくいです。感情的になればいくら理路整然と理屈を捏ねても言い含めることはできません。
他人なら辞めさせればいいのですがそうはいきません。
その弟子も自分が私の妻から辞めさせろという意見が出ていることは分かっていました。このまま学院に席を置いていても自分の立場はよくなることはない。そう判断していましたので、私が言い出す前に弟子の方から辞めたいと思っていますと言ってきました。
彼女の方も女房から嫌われていることは分かっていましたので、辞める決意をしているようでした。
ここまで来てしまえば仕方がありません。私とは良好な師匠と弟子の関係ですから、彼女が独立しても困らないように仕入れ先などの情報を教えて縁を切りました。

2013年1月14日月曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No43


人様から先生と言われる職業に就いている人は、理念を持って取り組んでいかなければいけないと考えています。ですからカリキュラムにも心の育成、情操育成につながる項目を設けてやっています。また学院では専門知識に付いても講義をしなければいけません。
ところが妻はそんなことはどうでもよい。着物教室は実技だけ教えておればいいのだからという考えの人でした。「みなさんこんにちはそれでは始めます。はいお疲れ様でした」という指導法で、学院のカリキュラムや作法や知識などは蔑ろで、自分の気の向くままに指導していました。
 専業主婦であった妻を、商売を初めて経営的に困難だから引っ張り出して手伝ってもらうようになったのです。手厳しく非難んをすることは可哀想ですが、そんな悠長なことを言っているゆとりはありません。
私としてはこれが最後の砦という事業ですか。夫の苦労を一緒に背負ってくれて、共に頑張って私が学院長で妻が副学院長で、妻の方から「次はこういう方針でやりたのですが」といったようなことを積極的に提言して一緒にやってくれることを理想としていました。それは私の勝手な空想で彼女には苦痛であったのかもしれません。
元々向いていない人を無理に引きずり出して手伝ってもらっていたのが、学院が軌道に乗り出したのでそのままある部分は妻に任せていたのが私の落ち度でした。
妻にそれ以上のことを求めても無理だということがわかりましたので、その分私の意向を汲んで活躍してくれる生徒を育成するために傾注しました。

2013年1月13日日曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No42


 彼女は素晴らしい情熱の持ち主で私の助言することを素直に聞き入れて頑張ってくれました。
学院では学院との連携を密にするために、上級者は月に一度は大阪の本校に来て一緒にお稽古をすることにしていました。彼女は頑張って一緒に大阪に来る生徒が7人もできました。大阪では本校の上級者と彼女の分室の生徒が一緒にお稽古をするようにまで、生徒が増えたわけです。
 彼女は本校の上級者とは以前に一緒にお稽古をした中です。ところが今は先生という立場で皆と交わっています。女性の世界は難しいので当然確執ができます。
気まずい雰囲気になり、先生は彼女ばかりを依怙贔屓するというようなことを言い出す者までいました。
そこで私は「彼女は頑張って教室を持って学院と協力をしながら頑張ってくれている」、学院には経済的にも多大に貢献をしてくれている。だから皆も頑張ってそうなってくれれば同じ扱いにすると言いました。
 そう言っても女性の世界ですから感情的なものが残ります。
そんなことは当然のことですからほっておけばいいのですが、私の女房は学院を手伝ってくれていますので、私と彼女とがいかにも親密であるようなことを耳に入れます。
それを耳にした妻は面白くないのは当然です。
ある日、妻が彼女を辞めさせてくれと言いました。
妻にも学院を手伝ってもらっています。妻には苦労を掛けていますので、本当は妻と二人三脚で学院運営をしていくことが理想です。ところが妻は家計を支えるために手伝っていただけで教えることが好きではなかったのではないでしょうか。



2013年1月12日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No41


これこそが希望の星の第一号です。
そういう気持ちでいるのであれば、学院としても何とかして一本立ちできるように
手助けをするから付いてきてくれとたのみました。
快諾を得ましたので早々に教室探しにい行きました。
大手のきもの学院は母体が小物会社で、小物を入学時に買ってもらうというシステムですから、人が育つのを待っていると教室が増えません。増えなければ大量に小物が売れませんので、学院の分校として教室を各地に設けて、講師の資格を持っている人を派遣するというシステムで行っています。
しかし私どもの学院では、小物販売をしていませんので、分校を各地に設置する経済力はありませんので、財政支援ができませんので他のことで協力と支援をするということで行っていました。教室探しから一緒になって探して個々の懐事情に合わせて、無理をしては長続きしませんので、経費が掛からない方法でスタートをして、計算が立つようになってから、確かな基地を設けるということで始めました。
よくお稽古をしていて、上達の遅い人は自己弁護のために自分には向いてないなどといいますが、向いていないものなんてないのです。自分がそのことに情熱を傾注できるか否かなのです。何かに取り組んだ時は一番大切なことは情熱です。起用不器用も関係ありません情熱があれば必ず独り立ちできるようになります。

2013年1月11日金曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No40



 お稽古事は家元制度を採用しています。
家元制度では本校が中心の核となり。その中心の核から波状的に多くの核がつながっていくことが理想の形です。
そのためには中心となる核が確かな存在となり、一人でも多くの核となる人を育てて行かなければいけません。
専従できるようになりましたので、次の私の仕事は核となってくれる指導者の育成です。
お稽古に来られる人は大抵は自分で着物が着れたらいいということでお稽古に来ています。
着付のプロになろうと思ってきているわけではありませんので、なかなかそういう人はみつかりません。
そういう人は砂浜で一粒の宝石を探す如くに難しいのです。
そういう状況の中で一人だけ、その日に教えれば他の人と同じレベルなのですが、次の週に復習をするとずば抜けて上手にできる人がいました。
今はこの人しかいないなぁーと思っていましたので、お話をしました。
そうすると自分は教える側でやりたいと思っている。そして私が唱えている理念にも理解を示して賛同してくれている。そういう理念を掲げて行っていることに賛成であるから頑張ってやってみようと思っているという人が現れました。

2013年1月10日木曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No39


 初めて行った学院販売は生徒の皆さんの協力で盛況のもとに終わりました。
ありがたいことです。
これまでは仕立ては自分でやっていましたが、数が増えると自分ではできませんので、お抱えの仕立屋さんをさがしました。
幸いすぐに見つかりましたが、お抱えの仕立て屋を持ちますと、仕事を切らさないようにしなければいけません。
初回は珍しいのでうまく行きましたが、これが続くとは思えませんが、展示会を定期的に行うことにしました。その場合に義理に絡まかせて無理にお願いをするようなことをしますと、悪評が立つのは明らかですから、ご案内はするけれども決して個々にお願いをすることはしない。あくまでも生徒さんの自由意思に任せる。展示会に来てくれなくても差別待遇は決してしない。そして値段的には必ず市価よりも安く提供することをスタッフと申し合わせて以後も展示会を行うことにしました。
これで自分で仕立てをすることや、アルバイトに行くことからは解放されましたが、裏地の調達や仕立て屋への運搬やらと多忙を極めました。
零細経営では掃除から学院長の仕事までなんでもやらなければ仕方がありませんので、忙しい日々が続きましたが、何とか専従して食べていけるようになりました。
大きな金額をかけて宣伝をするという力はありませんので、相変わらず崖っぷちの経営は続きましたが、少ない生徒ですが皆さん長く在籍してくれて助けてくれました。
着付を習いに行って10年以上も習っているといいますと、何も知らない人からすれば何を習うことがあるのか不思議がられますが、私どもでは7~8年在籍は普通で10年以上の人も数人いました。
着付のお稽古を通して自分磨きをするという理念に賛同してくださっている真面目な人が多かったからだと思います。



2013年1月9日水曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No38



初めて学院販売をしました。
少ない生徒の数ですが、皆さん来てくれて買ってくれました。
学院販売ですから勿論市価よりも安価の値段設定でしたので、安いといって皆さん協力してくれました。
 印象に残っているのは。もう35年も前に80万円の訪問着を買ってくれたことです。
当時はお抱えの仕立て屋さんがいなくて、妻に仕立をしてくれと頼みますと、そんな高級なきものを縫ったことがないのでできないと拒みました。せっかく高額なきものを買ってくれるといっているのです。それが売れれば当時のサラリーマンの一か月分の利益があがりますので、妻が嫌というのなら私が縫う以外にありませんので縫いました。
 舞台で地方巡業がありますと、時には現地で衣裳合わせをする場合があります。
台本を読んで役柄に合わせ、役者の寸法もわかっていますので、大抵の場合はこちらで用意して行った衣裳の押し付けで通るのですが、主役級はそうはいかなくて代えてくれという場合も多々あります。そういう場合は旅先ですから自分で寸法直しをしなければいけません。そういうことで、袷の着物はどういう形態になっているか、また運針もできましたので、きものの仕立てはできました。仕入れ先も知っていましたので、時々紹介をして売れた分は夜に子供を寝かせたから仕立てを自分でしていたのです。

2013年1月8日火曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No37


 私も長年着付に携わっていますので、新装小物を創作することはできます。
だけど他の学院の様に母体が小物会社ではありませんので、それを制作しますとドットがあって大量に制作しなければいけません。
大量に在庫を所持しますと、捌かなければつぶれてしまいます。大量に捌くとなりますと制作した小物を正当化させるためのこじつけの理由付けが必要になります。
それは必ず道理に反した理由付けになってしまいますので、オリジナルの小物は制作しませんでした。
物が売れなければ学院運営は困難です。
無理に買わされるという印象が広がればそれ以上にマイナスになりますので、どうするかを思案していました。
 お稽古をする生徒は小物だけでなく、着物等も他所で買ってこられます。
私は撮影所時代に衣裳の仕入れに京都の室町に行っていましたので、仕入れをする所を知っています。他所で買ってくる人が多いので、それを見ていて「学院でも販売部を設けて展示会をしたら見に来てくれますか」と声をかけました。
そうすると少ない人数ですが皆さん「見たいです」と言ってくれましたので、展示会をすることにしました。学院販売ですから勿論市価よりも安くするという約束の下にはじめました。



2013年1月7日月曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No36


現在は日本女性といえども自分で着物が着れなくても恥ずかしいという時代ではありません。現在はきものの畳み方も知らない人が多いのです。
そんな時代ですから儀礼の時だけに着たいというのならプロに着せてもらえばいいのです。
そのほうが合理的です。こんな時代にわざわざ着付けのお稽古をするのであれば、積極的にきもののお洒落を楽しんでいただきたいのです。そしてお洒落の根本目的である心の潤いにつなげて頂きたいのです。
着物を着てよい気分に浸っていただくには、人様から「素敵な装いをしているなぁー」と褒めてもらえるような上手な着付けが出来なくてはそう気分は味わえません。
 お稽古をする限りは上手にできるようになるまで行う。そのためには素直な気持ちになって先生の物真似をする。自我を出さない。上手になるにはどんなものでも努力が必要である。上手という山に登るには苦労や我慢はつきもので、それを克服してやり通す。
技能が無ければどんな小物を使っても上手にはできない。教養は永続性のある楽しみになるので、自身の人生の充実のために頑張る。
そういうことを説いて努力をできる人に導いて行くのもお稽古を営む者の役割なのです。
 人様から先生とよばれるものに従事している人は、運営費捻出を優先して考えるよりも何が道理かを優先させて運営をしなければいけないというのが私の考えです。
そのような考えですから学院経営は、常にやって行けるか否かの境を彷徨っているという状態が続いていました。



2013年1月6日日曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No35


 現在テレビコマーシャルをやっている着付教室では6ケ月無料にしています。
これは在籍中にきものを買ってもらうという手段で運営しています。
テレビコマーシャルで宣伝しようと思えば莫大な費用が掛かります。
それでも大々的に宣伝が出来ているということは、それだけ沢山の着物が売れていることを証明しています。莫大な利益が上がっているということです。それでないとテレビコマーシャルなどできません。
 通っている人は当初から着物を買わされることを十分承知をしているのなら何も問題はありません。
ただ、私が学院長をしていた時、嘗てそこで受講したという人が何人か来られていました。
習ったと言っていましたが、私から言わせれば全くできていません。
技能は拙いままですが、きものは買わなければ仕方がない状況に追い込まれるので沢山買ったといっていました。
それが私が知る限りの実態です。私はプロですから明確に言えますが、着付けぐらいと思っている人は多いのですが、たった6ケ月ぐらいで上手に出来るようになるほど簡単なものではありません。なんでも一人前になるにはそれなりの時間が掛かり、努力が必要なのです。



2013年1月5日土曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No34



出張着付に伺いますと沢山の人が各きもの学院のオリジナルの新装小物を持っておられます。
新装小物を持っておられるということは既に着付けのお稽古をされたということを証明しています。その大半は習ったけど着れないという人たちです。
現在大半の人はお洒落としてきものを着るというよりも、通過儀礼のときに着るという人がほとんどです。ですから普段着を何とか着れるようになっても礼装盛装が着れなくては着れたということになりません。そういう意味で申し上げればお稽古に行ったけで大半の人が着れないという人たちです。着れるということはどういうことかという確かな認識が欠乏しています。
 きもの学院は回転よく沢山の生徒が来てくれれば、それだけ小物がたくさん売れますので、技能習得に関しては喧しく提言をしない上に、新装小物を正当化させるために、これを使えば簡単に着れるようになると錯覚させられてしまうのです。
 あるきもの学院では当初の3ケ月は入学金も月謝も無料にしていた所がありました。そこは多くの生徒を集めていました。入学金と月謝を免除しても私共の学院では1万円ちょっとの費用です。1万円ちょっとなら無料にして沢山の生徒を集めた方が小物がセットで沢山売れます。小物と言えどもセットで買うと高額ですから、多く売れれば月謝を免除して利益が増えるという計算です。
なんでそんなかんたんなトリックに引っかかるのでしょうか。
 多くの人は「着付けぐらいその気になれば簡単にできるわ」と侮った気持ちを持ってますので、3ケ月もあれば十分にできる。無料で習えるのなら少々小物を買ってもという人の心理を巧みに利用したうまいやり方です。
でもそういう所はお稽古事の場として結局は長続きしませんでした。

2013年1月4日金曜日

エッセイ「人生探訪」仕事編No33


 着物を着るときには10cm位の幅のある伊達締めという小物を使用します。
出張着付に行って着付けをする時に一番使い難いなぁーと感じているのは伊達締めです。
それは伊達締めにゴムでシャーリングしてある物が多いのです。何処の学院の物とは言いませんがその伊達締めに、襟合わせが崩れないようにクリップが付けられているものもあります。
これは非常に使い難いです。
 着物の着付けを見て上手に着付けているか否かはおはし折のおさめ方で決まるといっても過言ではありません。おはし折は非常に目立ちますので、体から浮いた感じにならないように。そして長さも適度におさめることが大切です。
着付けを習っていて取得するのに大変難しい部分の一つであります。
その大切なおはし折の部分は、整えたおはし折を崩さないように伊達締めで確りと押さえながら、伊達締めを後ろに回して行かなければいけません。回して行く途中でシャーリングしてありますと伸びてしまって押さえの力が逃げてしまうのです。
 この商品を見ていますと、現実に着付けを知らない人が机上の上だけで、こんなものがあれば便利だろうと考えて制作したとしか思えません。
着付けを熟知している者からすれば、これらは明らかに運営費捻出のために使用させているとしか思えません。
腰紐のゴムベルトにしても、それぞれに似通っていますが、各きもの学院がオリジナル小物を使用しています。それはオリジナルにすれば市販されていませんので値段設定が自由にできるからです。

2013年1月3日木曜日

お正月三日目


今年の正月は年末から三女が孫と犬を連れて家に帰って来て、一緒に正月を迎えました。
犬は「カリン」と言います。元日にはカリンもお正月用におめかしをしてもらっています。
首にはショールをまいて大きなリボンを付けたおきもの姿です。可愛いですね。
 犬に着物を着せることは、人間のエゴであって、犬の健康上のためにはよくないというのが私の考えですが、この犬は大病をして、大手術をしていまして大変寒がりですから仕方がないですね。

2013年1月2日水曜日

お正月二日



 黒豆は一日目はだし汁に浸けておいて二日目に5~6時間煮て、そして煮汁に浸したまま一日置いておきますので三日かかります。
ですから例年は29日からお正月の支度をするのですが、今年は娘が孫を連れて帰ってきまして、孫に手がかかって何も出来ずでしたので、元日の朝に作りました。
雑煮は私どもでは母の味を引き継いで白みそで丸餅です。
質素で恥ずかしいですがご披露します。

2013年1月1日火曜日

年賀


あけましておめでとうございます

神がいて 父母ありてこそ 吾があり
友の幸せ 祈りて暮らす