2012年5月31日木曜日

人生は登り坂(No40)

日本の衣服は随、唐制の模倣から始まっています。
そして平安時代の藤原時代には唐制のアレンジではありますが、日本固有の服飾が誕生します。
それが男性は衣冠束帯であり、女性は唐衣裳(十二単)姿です。
服飾においてはそこが頂点で、武家の台頭によって簡略化が進み、下級の武家の服飾が武家社会では礼装となり、一般庶民の服飾の源をなしています。そして町人の経済力の台頭により町人の服飾に工夫が凝らされて現在に引き継がれています。
服飾は独り歩きするものではなく、必ず各時代の社会背景に大きく影響を受けて変遷していますので、服飾を語るには社会背景を理解しておかなければいけません。そういう服飾史を先ず勉強することが私のとっての優先課題です。
その勉強は私には大変困難を極めました。
例えば衣冠束帯の構成を列記しますと先ず小袖(こそで)、大口(おおくち)、垂纓冠(すいえ
いかん)、単(ひとえ)、衵(あこめ)、襪(しとうず)、下襲(したがさね)、半臂(はんぴ)、石帯(せきたい)、笏(しゃく)、剣と平緒(けんとひらお)、袍(ほう)、そして袍には脇が空いている闕腋(けってき)の袍と、脇の空いていない縫腋袍(ほうえきのほう)いうものがあります。
これらの漢字を読み込んでいかなければいけません。広辞苑では載っていませんので、一字一字詳細漢和中字典で引いて読んで書けるようにします。
そしてそれらがどういう形のもので、どういう役割の服で、どういう時に着るかを知らなければいけません。
苦労をしました。苦労でしたが学院を維持しやって行くには必須ですから必死でした。
ただ幸いだったのは、私はそのものがどういう形をしているかは、ある程度分かっていましたので
理解は早かった方だとおもいます。
私は学者ではありませんので、指導するにあたって、これで十分に責任が果たせるのではないかというところまで勉強しました。
その勉強を通して分かったことは、勉強というものはその気になって必死でやれば、独学でもどうにか形にはなるということです。
これで専門分野のことについては、技能と合わせて知識の方でも先生と呼ばれても面映ゆく感じることはないだろうというところまでには至りました。

2012年5月30日水曜日

人生は登り坂(No39)

 3人生徒が残ってくれていますので、その人たちには責任があるというよりも、私にとっては希望の星ですから、配達の暇をみてはキチット指導をしました。その人たちは本当に長く私に付いて来てくれましたので感謝しています。
私が子供の面倒を見て、妻は事務所に通うという生活の基本の形は離婚をするまで続きました。
配達のアルバイトをしながらこれからの経営を考えました。
私のところは時代衣裳の着付専門学院として発足したわけですが、時代衣裳だけでは生徒は集まらないことがこれまでの経験で判然としました。
女性の方は着付けを職業にするためにお稽古にくる人は皆無です。
折角親から支度してもらったきものがある。それがタンスの肥やしのままに眠っている。それをなんとか活かしたいという願望でお稽古にこられるのです。
その事が判然とすれば何時までも時代衣裳にこだわっているわけにはいきません。
そこで時代衣裳の専門学院から現代着装のお稽古の場に切り替える決心をしました。
何段階かにクラスを分けて、上のクラスまでお稽古した人には、時代衣裳もカリキュラムに組み込んで指導するというシステムにしました。
アルバイトの傍らでカリキュラムやクラス編成の書類を作成しました。子供の面倒を見ながらその作成に没頭しました。
そして私自信にこのまま指導者としてやっていく上で大きな問題点がありました。
脱サラをして急に先生と呼ばれるようになったわけです。
当初は情熱だけで無我夢中でした。当初は無我夢中でしたが、一年も経過すると学院として指導していくには技術だけでは駄目だ、人様から先生と呼ばれる限りは、もっと大切なものが必要であることが分かってきたのです。
ただ私にはそれに相応しい能力に欠けているという自覚はありましたので、皆さんから先生と呼ばれる度に面映ゆくて恥ずかしさに苛まれていました。
このことを克服しなければいけません。これを克服するのは勉強をする以外にありません。
勉強をするには今はよい期間だと思って、アルバイトをしている期間に必死で勉強しました。

2012年5月29日火曜日

人生は登り坂(No38)

食べるものは少々我慢や辛抱ができますが、商売をしていますと待ったなしにお金は出ていきます。
幾ら蓄えがあるのか女房に任せ切りですので把握ができていなかったのですが、たいした額でないことだけは見当が付きます。
子供がいることですから、そんなお金は当てにしないで、最低出ていくお金だけは稼いでこなければと焦っていました。
生徒を募ると言いましても、こんな場合は大阪の中心地で基地を持っていますと苦労をします。
周辺は事務所ばかりで住宅がありませんので、宣伝をすると言っても広範囲ですから、チラシ等の手段はお金が掛かって使えません。
また電車の中吊りなどの宣伝は莫大な経費が必要になります。
私のような零細なところが出来る宣伝は新聞の生徒募集欄に3-4行の短い宣伝文句を載せれる程度です。
それでも大変な費用が掛かりますので、ひと月に一回載せれる程度です。
それでもそれをしなければ一歩も前に進みませんので、最小限度の経費に止めて載せました。
その程度の宣伝では直ぐに反応があるわけがありません。反応が無くても載せなければ前進がありませんので生活を切り詰めて広告掲載をしました。
そして後は待つ以外にありませんので、アルバイトにいきました。
御中元と御歳暮の配達のアルバイトです。車持ち込みで行けば、一シーズン終わった時には、昭和の50年に入った当時で38万円位になりました。
最初の一年間は順調に推移していましたので、助手で手助けをしてくれる人を頼んでいました。
二年目からは女房に事務所の留守番に来てもらって、子供の面倒は私が見ました。
幼稚園の送り迎えは私がし、ご飯を食べさせて風呂に入れて寝かせます。勿論洗濯掃除も私がしました。
御中元の時は幼稚園は夏休みですから、朝車に商品を積んだら一度家に帰って子供たちを乗せて配達に行きます。
子供たちは車の中にジートしているのは退屈ですから一緒に付いてきます。
「この家」と私に聞きますと先にチャイムを鳴らし、「大丸です配達に来ました」と言っていました。
これは私にとっては忘れることのできない貴重な想い出です。
御歳暮の時は妻のお母さんが子供の面倒を見てくれました。
人は自分の力で成し遂げたように自慢をしますが、実はこのように多くの人達、特に肉親には大いに助けられているのです。ありがたいことです。

2012年5月28日月曜日

人生は登り坂(No37)

一年が過ぎてカリキュラムが一巡しますと一区切りになります。
その段階で大半の人は辞めていき残ったのは3人だけです。
生徒の全てが、例えば京都着物学院とか、装道着物学院などの有名学院の先生方でした。
その人たちは各々の学院でキャリアを積んで活躍している人たちです。
着物学院の人達は現代着装だけしかできません。そういう状況下では、自分は時代衣装も習って知っている。また着付ができるということで、自分の存在を誇示できる一つの要因になりますので、私の所に来ていたのです。
それを習って実践で活かすということであれば、週に一回のお稽古で、それも様々な衣装の着付けを一年くらいで身に付く筈がありません。
一年位のお稽古では技量的には触れたといういう程度ではありますが、彼女たちはできなくても、自分たちの学院の中では十分に箔がつき、自分の存在を誇示できますので、カリキュラムが一巡した段階で辞めていかれたのです。
考えてみれば辞めて行かれるのも無理はありません。
習って出来るようになったとしても、活躍の場がないのでから、当然といえば当然のことで、みんなが辞めて行くことが自然なのです。
ただ残念に思うのは自分自身の不甲斐なさです。
一年間もお付き合いをさせていただいたのですから、自分にもっと魅力があればもう少し残ってくれていたかもしれないのです。
それだけ自分に魅力がなかったのだと思い知らされました。
さぁーここからが試練の時代に入ります。
必要経費は月に12万円程度必要です。住まいの方の家賃と生活費が必要です。
折角始めた学院運営ですから簡単には辞められません。というよりは辞める気もありません。
私にとってはここが最後の砦ですからなんとしてでも持続させなければいけないのです。

2012年5月26日土曜日

枝野さんもか

東京電力が利益の90%を家庭向きの電力供給で得ていることが判明しました。
そのことについて枝野大臣は、明るみに出たことだけでも良しと言えるなんてコメントをしていました。
まるで自分も知らなかたというような発言です。
自民党の河野議員や他の専門家に言わせれば、知らなかったということは絶対にないと言っています。
枝野さんといえば官房長官の時に、多くの国民が激務を気遣って「枝野寝ろ」といわれたくらいの、民主党の星として国民が期待をしていた議員です。
その枝野さんが電力値上げが重大事として問題化しているさなかに黙っていた。
どういうことなのでしょうか。
やはり政権政党は企業優先擁護ということなのでしょう。
真に国のことを考えれば、東京電力は潰して一時国有化して、良い機会ですから電力供給の完全自由化を進めて行くことが、国民に目を向けた政治になるのではと、素人ながら思うのです。
枝野さんも若いのですから、橋下さんのように自己保身を考えないで信念をもって戦う政治家に成られることを願っています。

2012年5月25日金曜日

役所の対応に疑問

花のように職場も自分も明るくね

 先日妻が年金を貰える時期に至りましたので、申請のための書類を記載していますと配偶者の所得証明が必要ということですから、役所に頂に行きました。
窓口でその旨を話しますと、「一通ですか。家族全員ですか」というような、私の理解しがたいことを窓口の人が言いました。
私たち一般人はそういう書類のことについては疎いのが普通です。
私も分かっていない一人ですから、「そういうことは主旨に応じてどのようなものが必要かはあなたがたの方がよくご存知でしょう」と、自分は分からないから教えて下さいねという気持ちで言いました。
そうするとその窓口の女性は、「年金は国の事業でしょう。市とは別ですから関係ありませんので」と言い返してきました。それも顔色を変えて反応してくるのです。
怒りというよりもがっかりしましたね。
私は自分の時は配偶者がいませんでしたので、配偶者の所得証明は必要ではなかったものですからわかりませんでしたが、必要であるとするならば、今までに多くの人が、年金申請の為に証明書を取りに来ていると思います。
役所の担当者である限りは自分たちの業務に関係していることは、国や地方に関係なく勉強をして、不明瞭な認識の市民のために、優しく明確に説明をして必要書類を渡して上げるようにするのが、役所の人間としては当然のサービスではないですか。
一般人は身体も酷使し、気を使ってペコペコと頭もさげて苦労してその中から税金を払っています。そんな貴重なお金を集めて成り立っている役所の者は、一般人以上に市民サービスを実践しなければいけないでしょう。
サービスとは何かをもっと自覚しなければいけませんね。
市役所に行くと空気が重苦しく暗いのです。それは活き活きと動き回っていることもなく、職員の皆さんの顔が暗いからです。
輝いていないのです。輝いていないということは楽しんで仕事をしていないからですね。
こんな不景気の時代では一般の人たちより安定して所得も多いのですから、もっと活き活きと市民サービスに勤めなければいけませんね。そうすれば市役所も明るくなるでしょう。

2012年5月24日木曜日

荒牧バラ園



5月23日伊丹の荒牧バラ園に行きました。
バラは満開でした。
園に入った瞬間にここは極楽かというほど華やかでした。
甘い香りと多彩な美しいバラ達、最高の気分でした。
この荒牧のバラは今日は妻も投稿しています。
妻の方が全てにおいて上ですね。
妻は西宮流の「花が好き」です。

2012年5月23日水曜日

幸せになれ孫達

結婚をして6月で満二年になります。
20年間一人寝の寂しい生活を送って来ましたが、結婚をして孫が5人も出来て賑やかになりました。
孫は可愛くて孫たちと接しているうちに、子供をどのように育てるのが最も理屈に適った育て方なのかとついつい考えてしまいました。
昔は子供は社会の預かりものと言っていました。
可愛い子供を手に抱いて慈しんでいる若い親達には、この言葉は理解しずらい
言葉ではあると思いますが、その考えで育てることが最も理屈に適った育て方だという結論に私自身は至りました。
人間というものは社会という人の群れの中で多くの人たちに支えられて生きています。
これは真理です、真理であるならば健常者である社会人は前向きに生きて、少しでも多くの力を発揮して、自分も支える役割を果たさなければいけません。
そのためには子供は健康で、そして少しでも早く自立できるように育てていくことが親の最大の使命なのです。
最近は子離れのできない親、親離れのできない子供が増えていますが、それは
親の都合の良い感情だけで育てるからそうなってしまうのですね。
子供は少しでも早く自立して社会で前向きに頑張れる子供に育てる。
そしてその子らが、大きく社会に貢献できることが出来れば、必ずその子供の人生は充実します。
私の子供たちもそのように孫たちを育てて欲しいと思っているのですが、若い人たちには、自分たちの考えがあって、各々が一生懸命に育児に専念していますのでそういう説教も議論も出来ないですね。
亀の甲より年の功ですから、昔のようにもっと年配者の思念が若い人たちに
届く風習を復活させないといけませんね。

2012年5月22日火曜日

金環日食

昨日は広い範囲で金環日食が見えるということで、私も5時に起きました。
妻が勤めから午前中に帰ってきますので、掃除をして台所を綺麗に片付けて
7時には用事を終えて、ベランで脚を立てて準備をしました。
脚なんて言いますと立派なカメラのように思いますがデジカメです。
デジカメにフイルムを取り付けて撮影をしたのですが、上記の写真が一枚撮れただけです。
やはりデジカメでは無理ですね。
挑戦しただけでもよしとしましょう。

2012年5月20日日曜日

シャクナゲ

大好きな花です。
この花を見ますと、華やかで美しいけれど芯のしっかりとした女性を
想像してしまうのです。
よく室生寺まで見に行きましたが最近はご無沙汰です。
大台ケ原にも自生しているシャクナゲが見れるそうですがまだ見たことがありません。
花の命は短いので咲いている時期に合わせて行くのは難しいです。
大台ケ原にも行きたいなぁー。汗を流した後に、近くに小処温泉という秘湯がありますので
温泉にも入りたいですね。話がちぐはぐですね。
http://www.youtube.com/watch?v=bT3OXchtk6Q 花の写真集です

2012年5月19日土曜日

カキツバタ・アヤメ・アイリス

5月になるとカキツバタ、アヤメ、そしてアヤメ科のアイリス、イチハツが花を咲かせます。
写真の上二つはカキツバタで間違いないがないとおもいますが、下の花はアヤメか、それともアイリスかイチハツか区別がつきません。
アヤメやアイリスは乾燥した土でも花をつけるようですが、これが水辺て咲いていますと、
これから花菖蒲も花を付けますので、ますます区別を付けるのが難しくなります。

2012年5月18日金曜日

ユリノキ

花は5~6月頃、今がその時期で、チューリップのような花が咲きます。
葉に隠れていて見つけにくいですが、花弁は黄色とグリーンで彩られていて綺麗な花です。
生長が速く、街路樹・庭木・公園樹として利用されるそうです。
葉に様々なタイプの斑が入るものや、枝が横に広がらない品種が改良されているそうです。
また、重要な蜜源植物で、良質の蜂蜜が得られるそうです。
材としては、器具・建築・合板・楽器・ソーダパルプに利用されるそうです。

2012年5月17日木曜日

ハマナス

ハマナス(浜茄子、浜梨、?瑰、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落葉低木。
夏に赤い花(まれに白花)を咲かせます。
根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になります
皇太子徳仁親王妃雅子殿下のお印でもあります。
ハマナスは晩夏の季語です。

2012年5月16日水曜日

クロガネモチ

写真はクロガネモチの木です。
秋から初夏までの長い期間に渡って赤い実をつけてます。
姿が良く好きな樹木の一つですが、去年はどの木も多くの
実を付けて、ピラカンサの実を彷彿させるような姿で
趣を損ねています。
こんなに実を沢山付ける姿は初めてみました。

2012年5月15日火曜日

白毫寺の九尺藤


丹波市市島町白毫寺709 TEL0795-85-0259
九尺藤の存在を知ってはるばる丹波まで見に行ってきました。
藤の木は十本でくの字に藤棚が設けられており幅は約3m位で
長さは150m位ありました。
九尺藤と言われていますがそれほど長いということで、今年は寒かったので
短いと言われています。
藤棚の下に椅子を持っていって、顔に近いところまで垂れ下がる藤を鑑賞できる
のは圧巻です。
香りがいいのでクマバチも人の数に負けないくらいに花をついばむっていました。

2012年5月14日月曜日

瓢箪山の平戸ツツジ

昨日は母の日でしたので、長男が妻と私をハイキングに招待してくれました。
嫁がたくさんのお弁当を作ってきてくましたので、ツツジを見ながらツツジ見
宴会で暫し楽しみました。
近鉄の平岡から瓢箪山にかけてはハイキングコースになっていて、瓢箪山には
ヒラドツツジが満開でした。

2012年5月13日日曜日

長岡天神のキリシマツツジ

写真の躑躅は長岡天神の参道に植えられているキリシマツツジです。
妻の仕事は朝の9時半に終わり、昼の3時半からまた仕事ですから、西宮に帰れば
また直ぐに行かなければいけませんので、私が寝屋川まで出向いて時間つなぎに長岡天神の躑躅を
見に行きました。
毎年葛城山のツツジを見に行っていまして、今年はまだ少し早いという情報を得ていましたので
長岡天神の躑躅は今がベストと思い行ったのですが、ご覧のようにもう散っていました。
残念でした。
ここまで来たのですから錦水亭で食事でもしようかと行ったのですが、
五月は筍料理のコースしかやっていなくて、コースは12000円からということですから、
年金暮らしの者には贅沢過ぎますので辞めました。

2012年5月12日土曜日

長岡天満宮の牛

人間というのは五体満足でも、神経が犯されていると廃人同然になって
しまいます。
人間は形のない精神に支配されている動物です。
一番大切なのは脳細胞が正常に機能していることです。
難しい理屈は抜きにして、そういうことは感覚的に皆さん分かったおられるので、あやかりたい部分は頭ですから、みなさん頭を撫でますので、皆さんの気持ちが反映されて、天満宮の牛も頭だけはピカピカに輝いています。形は心の現れとよく言ったものです。

撫でたとて 寝てばかりでは 進歩なし

2012年5月11日金曜日

星田妙見宮

星の神社、特に七夕伝説で有名な星田妙見をご紹介します。
五十二代嵯峨天皇の弘仁年間(810~823)、弘法大師は京都を旅発たれ、
ところどころの霊場を訪ね回っておられたが、ふと河内の国私市(きさいち)の
観音寺へ立ち寄られ、ここで虚空蔵菩薩求門持(こくぞうぼさつぐもんじ)の
法を修められた。
すると、その法力によって、その夜、山の手に仏眼仏母の光明が輝いた。
そこで、夜明けになってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある獅子の岩屋に入って、
仏眼尊の秘法を唱えられた。
すると、不思議にも、大空から、七曜の星(北斗七星)が降り、それが三つに分れて落ちた。
八丁三所と言われている。
その星の降った所を探してみると、星田の高岡山の南にある星の森、
光林寺の境内の森、そして今一つはこの妙見山の頂にある三つの巨岩である。
以来、これらの石を影向石(ようごうせき)として祭ることになったと言われている。
(妙見山影向石略縁起)による。
影向石(ようごうせき)とは、神仏がその姿をこの石の上にあらわしたという石で、
八丁(872㍍)とは、三ヶ所の影向石の間が八丁隔たっているという意味である。

2012年5月10日木曜日

岩清水八幡宮

男山に登り岩清水八幡宮にお詣りしてきました。
本殿は修復されたところで朱色が鮮やかで荘厳な霊気が漂っていました。
岩清水八幡宮は官弊神社で伊勢神社、賀茂神社(上賀茂、下鴨神社)と共に
日本の三社の一つです。
宇佐神宮、鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つです。
中世以降は伊勢神宮と共に二所宗廟で天皇、上皇、法皇の行幸が250余りを数えると
言われています。
熊野大社も昔は蟻の熊野詣でと言われるほどに参拝者はおおかったそうですが
それと同じように昔は物凄い数の参拝者であったと言われています。
平安時代から末法思想の時代に入ったと言われています。今はそれが顕著になり、わざわざ神社にお詣りする人は少なくなっていますね。それだけ感謝の念が薄れて来ているのですね。
人は自分が幸せになりたいと願うがために、利己的になりがちです。
しかし自分が幸せになるには感謝の気持ちが大切なのですが、その重大事を忘れている人が増えているのですね。
末法思想と言うのは時代が経て行く、ほどそういう人が増えて行くということですね。

2012年5月9日水曜日

走井餅(はしりいもち)


京都の岩清水八幡宮の門前町に走井餅と暖簾の揚がっている店があります。
趣のある店構えでしたので入ってお茶とお餅を頂きました。
入りますと安藤広重の五十三次の浮世絵が飾ったありました。
店の人に、このお店とあの絵は何か関連があるのですかと聞きますと、岩清水八幡に
移って来る前は近江で店をやったいたそうで、広重の大津の絵にはこの店が描かれて
いるのです。驚きました。
江戸時代の明和年間から営業をしているそうで、そんな由緒あるところで
美味しいお茶とお餅をいただけて感激いたしました。
お餅は今もよく売れているそうで、柏餅の草餅をいただきましたが、あんこがひつこくなく
美味しかったです。

2012年5月8日火曜日

ハリエンジュ(ニセアカシア)

今ハリエンジュは綺麗に咲き、甘い芳香を放ったいます。
北海道ではハリエンジュを一般的にアカシアで通っているそうです。
関西ではアカシアは桜の花の咲く頃に黄色い花を付けます。
明治に日本に輸入された当時はアカシアと呼んでいたそうです。
その後アカシアと区別するためにニセアカシアと呼ぶようになったそうです。
西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」や裕次郎の「赤いハンカチ」などで
歌われているアカシアは全て写真のニセアカシアの方です。
私は離婚をして笠屋町という武庫川の近くに引っ越して来たのは、武庫川の河川敷を
ジョギングしたいと考えたからです。
この時期になり、武庫川を北に向かって河川敷を走っていますと、巫女の持つ鈴の
ように白い花が咲いています。
この年になって花の名前が全くわからないのは恥ずかしいなぁー。
また樹木の名を知っていると、季節に応じて変化する樹木を見て楽しめる。
そういう楽しみ方も分かる人に成らなければいけないのではないかと考えて、最初に覚えたのが
写真のハリエンジュです。
女房と一緒になったときに「ハリエンジュが綺麗にさいてるね」と言ったときに、
「ハリエンジュを知っているなんて男性としては珍しいね」と褒められたのを覚えています。

2012年5月7日月曜日

2012年5月6日日曜日

男の料理「てんぷら」

娘が二人家族連れで来てくれるというので、食事を何にしようかと迷いました。
先日喫茶店で知り合いの女性の方たちと食事の話をしていたのですが、皆さんは天ぷらは家では作らないと異口同音におっしゃっていました。
台所が油で汚れるからです。
天ぷらは外で食べるものと言っていましたので、それでは天ぷらを作ろうと決めました。
写真がその天ぷらです。大きなお皿に綺麗に並べて撮せばもっと美味しそうに見えるのですが、お皿が足らないので揚げたてんぷらを積み上げている状態です。
天ぷらを作るときは新しい油を使います。
古いものは香りが移るからです。先ず野菜を揚げてそれから白身魚やエビを揚げます。
魚を揚げますと油は汚れますので終われば捨てるようにしています。
天ぷらは手間が掛かり、後片付けが大変ですが、簡単で材料費は安上がりで美味しく頂けます。
家で自分で作る人が少ないのでゴージャスな食事にもなります。

2012年5月5日土曜日

キランソウ

学名はアジュカという、ジュウニヒトエの名で通っているが
正式にはセイヨウジュウニヒトエと言い、十二単とは全く
関わりはありません。

2012年5月4日金曜日

先生の想い出

写真はツバクカンザクラ

「おい飯山もっと背筋を伸ばして座れ」と授業中によく先生から注意をされました。
子供ですから何故そのように注意されるのか、その理由がわかりませんので、「うるさい先公だなぁー」と心の中で反抗心を抱いたものです。
自分も子供を持つ身になってそのことの大切さがよくわかりますので、「有り難かったなぁー」と注意をしてくれた先生を懐かしく思い出します。
この年になっても心に強く残っている先生は、そのようによく注意をしてくれた先生です。それだけその先生は情熱を待っておられたのです。その熱い心が今も私の心に焼き付いているということですね。
先生をやる限りはそういう先生になって頂きたいですね。

2012年5月2日水曜日

親は厳しく

妻はよく田舎の話をします。
愛媛の松山から一時間ばかの山奥です。
田舎の話をしますと必ず出てくるのは厳しかったお父さんの話です。
あまり厳しかったので、若い時の願いは、早く父の庇護の手から離れて都会に出てくることだったそうです。
話を聞いていますと、確かに厳し過ぎるなという所はありますが、虐めではないのです。
子供たちは虐めだと思っていたようです。
お父さんは、そういう形でしか子供と接っする事ができなかった。お父さんにしてはそれも子供を立派に育てる愛情表現であったのかもしれません。
妻はそれは愛情と違うようなことをいいますが、今となっては田舎の話になりますと、必ずお父さんの話になり、結果としてはその話で終始してしまうのです。
子供たちにとっては厳しかったかもしれませんが、今となってはお父さんは子供たちの中で
確りと生きていることを感じます。
厳しく育てられていたから、苦労に耐えて子供たちを立派に育てることができたのです。
子供は自分も子供を設けて歳を取ると、幾ら厳しくされても、それは虐めでなく自分のためを思ってのことであったことが分かるようになりますので、子供には愛情を持って怒るときは厳しく怒る方がいいですね。
亀岡で交通事故を起こした少年は、無免許で祖母の車に乗っていたいたということです。
親達が厳しく子供に対応していたら起こらなかった事故です。
優しく接することは簡単です。でも親はあえて難しい方を選択して、厳しさを子供たちに植え付けるべきです。
若くして車を乗り回している人が多いですが、なにがしかで親が援助をしているケースが多いようにおもいます。親はもっと考えるべきですね。簡単に車を手にいれますと、車を大切に扱う
気持ちが希薄になり、その分運転にも影響を及ぼします。