2012年11月9日金曜日

エッセイ「人生探訪」楽しみに付いて(その21)

 
 世の中は平等と言いますが、確かに人権は平等ですが、生まれた時からハンディーを背負って生まれて来るという意味では、宿命的に差異を背負って生まれてきます。
例えば、親が社長で大きく事業を営んでいれば、その子供は苦労なく育てられ、将来は社長になれる確率も高くなります。
 私は尼崎の下町で育ちました。結婚をして西宮の苦楽園方面で住まいを構えました。私が育った地域では中卒で就職をした人は沢山います。また有名大学に行けた人は少なかったのも事実です。西宮の山手の方に住居を構えて子供を通じて知ったことですが、世間で言うところの有名大学に行った人は沢山います。
 この差異は勉強できる環境やお金の懸け方が桁違いだからです。それが現実で、良い仕事に付けて遣り甲斐のある仕事に就け、成功する確率も高いというのは運命的なものが大です。
そういう運命的なことで大学にも行けなかった。従って、仕事も遣り甲斐のある仕事に就けなかった。だから仕事で永続する喜楽を得ることができなかったという人は沢山います。
 仕事によって永続する喜楽が得られなかったからといって、その人の人生は負け組になるかといえばそんなことはありません。そんなに不公平に神様は世の中を作っていないのです。
田辺聖子の本の中で描かれているくみ子のように、自分みたいな者でも雇ってくれて「有り難い」という感謝の気持ちで働けば、その日から仕事は楽しくやれるのです。心の持ち方一つですべての人が永続性のある喜楽を得られるのですが、それは大変難しく自分の心をコントロール出来ずに欲望に振り回されて苦しむのです。
私たち俗人は欲望を捨てきることはできません。欲望がなければ文化的進歩もないでしょう。でも欲望に振り回されない我慢、辛抱、感謝、労りの心を磨かなければ永続性のある喜楽は得られないのです。

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