2014年10月7日火曜日

幸せさがし-75

着付は昔は衣紋道(えもんどう)と言っていました。平安後期の鳥羽天皇の時代に、花園の左大臣と言われていた源有仁(みなもとのありひと)が、公家たちの容儀を正すために、それまでの凋装束(なえしょうぞく)から、剛装束(こわしょうぞく)にかえました。
凋装束の時には着付が下手でも目立たなかったものが、剛装束になりますと下手に着装していると、無様な姿が目立つようになりましたので、有仁が開祖となり装束全般に渡って司る衣紋道が出来ました。その衣紋道は室町中期には山科、高倉家に引き継がれ現在も山科流、高倉流として活躍されています。
お茶は室町から始まって安土桃山に完成します。お花はもっと後ですから、着付の歴史は古いのです。歴史のあるものが格式あると一般的には思われています。そういう風潮からすれば、着付も格式ということでは引けをとらないのですが、一般的にはそういう事実は知りませんので、他のお稽古事と比較しますと、着付ぐらいと侮られています。
着付は実用に即したお稽古事ですから、お稽古に行った、経験したというだけでは使い物になりません。お稽古に来た限りは出来るようになって頂きたい。 出来るようにしてあげるのが私たち指導者の使命です。美容院に行けばヘアーセット代よりも着付代の方が高いのが現実です。それは着付の技能習得は難しくて時間が掛かるということです。どんなものでも同じです。真面目に前向きに取り組まなければ一人前に出来るようにはなりません。ところが着付ぐらいと侮りを抱いているので熱心ではない。遊びの延長で取り組んでいる人も少なくないのです。そういう人達を導くには、お稽古事と人生と如何に関わっていて重要なものか、そういう事を説いて意識高揚に繋げていかなければ、皆さん出来ないままに辞めて行かれます。
昔から、日本のお稽古事は茶道、花道等と「道」が付けられています。それは技術、技能を通して心の道も学んでいただくということです。学校の勉強も技能習得も全て同じです。一番大切なことは自主性です。その自主性は人生哲学が深まれば自ずと増幅します。着付と人生論とどう関わっているかが理解できないようでは前向きにはなれないのです。勉強もそれは同じです。

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