2014年9月16日火曜日

幸せさがし-56

人 から先生と呼ばれるのは魅力のある仕事ですから、多くの人が教室を開きました。
契約金の代わりに高額な小物をセットで何組か購入しなければいけません。高額投資ですから教室開講者は小物を捌くために懸命に生徒を集めました。
着物教室ブームの時は、目をつむって石を投げればきもの教室に当たると言われるくらいに多く存在していました。それだけに本校は大きな利益を上げていたと思います。沿線の各主要駅前の立地条件の良い場所に、沢山の分校を設けていたことがその隆盛振りを物語っていました。
その当時私は芸能界の衣裳担当の仕事をしていまして、きもの学院の活躍を知りませんでした。
1965年に松竹が閉鎖され、続いて大映が閉鎖し、東映は時代劇路線からヤクザ映画路線に変更し、映画もテレビも京都、大阪での制作がすくなくなりました。
私も東京に転勤の話が持ち上がりましたが、東京は好きでないので、何とか関西でやって行けるように一般向きのイベント応援事業として一般部を起ち上げました。その時に初めてきもの学院の存在をしりました。着付を教えている所と聞いて、どんな人達が行っているのか調べますと、私たちからすれば素人の人達が行っているということです。早速京都きもの学院の教室に十二単、芸者、舞妓などの時代衣裳の着付をお稽古しませんかと営業にいきました。
私が営業に行き始めた頃は、既に着付ブームが去って、個人の教室は姿を消して、大手の着物学院の分室しか残っていない時代になっていました。
ブームが去って、各着物学院の先生方も現状のままではという危機意識があったのでしょう。
直ぐに教えて欲しいという人が出て来ました。
芸者、舞妓などの時代衣裳を風呂敷に入れて担いで教えに行きました。特殊な着付であり、衣裳の教材費などをいれますと、結構な講習料になりました。育成して舞台や映画などでアルバイトとして使えば一石二鳥ですから、会社に進言しましたが却下され、東京転勤が具体化しつつありました。

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