2013年10月3日木曜日

お稽古事の「修」「破」「離」-3

修の段階は創造創作でなく物真似ですから面白みにかけるので苦痛が伴います。
情熱を持って取り組むということは、自主的に前向きに頑張るということです。
そういう自主的な取り組みはベストですが、自分の為に来ている筈なのに、なかなかそういう気持ちになれない人が多いのです。
 これは勉強でも同じです。誰のためでもなく自分の人生のためにするのです。
幼稚園から大学まで数えて19年間学びの道を歩むのです。自主的に前向きに、そして先を見据えた取り組みをすれば、必ず何かを掴み取れる筈です。
でも修の段階は確かな目標をもち、その目標に対する執着心が貧弱であれば、良い成果をあげることはできません。
 特にお稽古事は例え出来なくても、現状の生活に何の支障もありません。
学校の勉強は自分の人生に大きく影響を与えます。そんな大事なものでも、親からやいやい言われるから仕方なくやるという人の方が多いというのが現実です。
 それが現実ですからお稽古事では尚更情熱を持つことは難しいのです。
指導者はそういう現実を十分に把握して、どうして頑張らなければ仕方がないように仕向けて行くかということが大きな仕事になります。
 専門的なことよりも、それ以前の精神性に踏み込んでいかなければいけないのです。親は専門的に勉強を教えることは出来ませんが、精神的な面では立ち入って指導することは可能です。

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